2021年11月30日火曜日

怒りで線を引く

日曜日の午前中だけ出勤して、午後は家で本を読んだ。翌朝出勤すると、まだ1日経っていないのにメールがいっぱい届いていて、ん、どうした、昨日の午後に限って、みんなメールをしたい気分だったのか、と驚き、ぶつぶつつぶやきながら返事をしている。1時間半ほど経つがまだ終わらない。職場にいないとメールが見られない状態なので、ときにこういう渋滞が起こる。

ぼくは仕事のメールを家で見ない。というか見られない。職場で使っているメールアドレスは、職場のサーバを介してしか送受信ができないタイプで、この不便さに閉口して多くの職員はGmailを使っている。でもぼくは「家でメールを見たくないときに見なくていい」のが便利だなと思って、14年間職場メールを大事に使い続けてきた。不便を便利に反転させたのだ。

そこまでして守っていた自宅、仕事が入り込めなかったはずの自宅に、FacebookやSlackが少しずつ侵食をしはじめているので、メールアドレスによる抵抗もそろそろ無意味になりつつある。休日も夜間も関係なくアプリの通知がブンブン鳴る設定にしているのが悪いのだけれど、鳴らさないと着信に数日気づかなかったりするのであぶなくていけない。「そうやって休みの日もずっと仕事のことを考えているのはよくない、公私を切り替えたほうがいい」と言われる。しかし、ぼくはとにかく線引きが苦手なタイプだ、何につけても。メールで線を引いて壁を作ったはずがうまくいかなかった。境界はとろけてしまった。



最近は見なくなったが、昔は「仕事中にTwitterするなんて不真面目だ」というクレームを見た。これに対してぼく自身は、「休日にも仕事しているんだからバランスとしてはちょうどよいだろう」と思っていた。仕事をしている時間、プライベートの時間、これが9時5時できっかり分けられる仕事とそうでない仕事がある。飛行機のパイロットや電車の運転手のように仕事中にプライベートを持ち込むと猛烈に怒られるタイプの仕事と、病理医のように仕事とプライベートの境界がそもそも存在しない仕事が……あっいやこの一般化は少し乱暴だったか。

それにしても人の働き方に怒る人というのはなぜ存在するのだろう。どう考えても他人事のはずなのに。


怒りという感情。


怒りは無理解によって増幅される。理解する能力が足りないというよりは単に機会が足りないのだ。知ろうと思わなければわかれないことが世の中に満ちている。チャンスとやる気さえあれば人間の高度な脳はたいていのものをきちんと読み込んでくれるが、人は誰もがそこまでヒマじゃないので、知らないままの領域を無限に抱えている。知らないはずのものを自分の知っている範囲で判断しようと思うと、背景の複雑な文脈が読めないから、モノとモノのつながりが不合理に思えて、なぜだと怒りが湧いてくる。

使い古されたフレーズに、「自分でも説明できない怒り」というのがある。でもこれは言わずもがなである。説明できるならば怒る必要がないからだ。説明できない部分の理不尽に直面したときに、感情を爆発させて爆風によるガードを展開する、それが怒りだ。怒る人というのは常に何かが見えていない、あるいは、「一部しか見たくない」からこそ怒る。


こういうことを言うと、「正義の名の下に怒ることだってあるだろう」というおしかりが飛んできたりする。でも正義を定義できると思っている時点で無理解だろう。世の中の構造が見えていない。自分の中での正義を守るために必要なのは怒りではなく説明であるし、世の中の正義を守るという言葉は妖精を守るとか背後霊を守るというのと一緒である。我々の理解が及ばないところにあるかもしれない(ないかもしれない)メカニズム。正義という言葉はそういう言葉だ。これに対して怒りを発動する、その精神構造がわからないわけではない。ここでぼくが使った「わからないわけではない」は、知らないはずのことを自分の知っている範囲で判断しようとする誤謬の第一歩なので、あまり先に進めないほうがいいと思う。メールの話だったのにずいぶん違うところまで歩いてきてしまった。怒りこそは線を引く行為そのものなので、まあ、違わないという考え方もあるのだけれど。