2022年4月5日火曜日

病理の話(643) 新しい形態診断の世界へようこそ

こないだ聞いた話がおもしろかったので書きます。


デジタルパソロジーという言葉がある。パソロジーというのは病理学という意味だ。病理診断をデジタル化する、くらいの意味合いである。

では何をデジタルにするのか? 要はプレパラートをデジタルにするのだ。

プレパラートを顕微鏡にカシャコンとはめて覗くスタイルは、いかにも研究者っぽくてあこがれる。まあみんなもあこがれていると思う。大丈夫、知ってる。人口の100%くらいが顕微鏡大好きだ。

けれども、100%というのはあくまで近似値で、なかには「顕微鏡なんてオタクっぽいし目が悪くなりそうだし背中まがってそう……」みたいなことを言う人も、0.00002%くらいはいるかもしれない。誤差範囲だけど。SSRより稀なレアキャラだけど。

で、ま、そのあこがれる・あこがれないはどうでもいいとして、現実には、プレパラートをデジタルスキャンすると、「顕微鏡がなくても、PCモニタで診断ができるようになる」ので、いろいろと便利なことがあるのだ。

たとえば、遠くにいるすごい病理医に診断の相談ができる。

学校で学生相手に講義するときも、スクリーンやPCに画像を直接出したほうが教えやすい。

PC上で病理組織像が見られるならば、そこに自由に字やマーカーなどで書き込みをすることもできる。これもすごい便利だ。

病院の中で、医者がいっぱい集まるカンファレンスが開かれる際には、デジタル画像をモニタで見たほうが議論がしやすい。

なにより、「病理診断をテレワークにできる」というのがいい。病院に出勤しなくても、家のPCで診断ができるじゃないか。





と、まあ、デジタルパソロジーにはさまざまな可能性があるんだけど、そういうのとはぜんぜん違う「いいこと」もあるという話を聞いた。


それは、「プレパラートをデジタル化すると、病理医が診断するときに活性化する脳の部分が変わるかもしれない」ということである。


おもちゃでもいいので顕微鏡を使ったことはあるだろうか? もし、顕微鏡のことを覚えているならば、以下の説明はすこしわかりやすくなる。


顕微鏡には「接眼レンズ」というのがある。ガラスプレパラートに向かってのびる、円筒形のレンズだ。この先のものを拡大できる。ただし、この「レンズを使って拡大する」という構造のために、じつは顕微鏡観察には弱点がある。

それは、「拡大するのは得意だが、俯瞰するのがちょっと苦手」なのだ。

虫メガネで新聞の文字を拡大すると、一部分をぐっと拡大するのはいいとして、全体像をざっと眺めることはできない。顕微鏡とはそもそもそういうツールである。一部に注目したら周りは見えなくなるものなのだ。

しかし、デジタル化したプレパラートは、全貌を画面上でバッと眺めることができる。これ、意外に、診断の場面では今まであまりやられていなかったことである。

今までも、プレパラートをデジカメで写真撮影すれば、全貌をバッと眺めることくらいできるのだけれど、その解像度はあまりよくなかった。ところがデジタルパソロジーで用いるスキャンははるかにすごくて、「全視野を600倍(※一例)拡大した写真を自動でつなぎ合わせている」ので、解像度がとんでもないことになっている。

デジタルパソロジー技術が発展することで、「解像度が高いままに、全貌を見渡す」ことができるようになったのだ。

スキャナだけではない。あともうひとつの技術革新がある。以下の写真を見て欲しい。




これは亀田総合病院の臨床病理科から拝借した写真である。顕微鏡がなくて、代わりに大きなデジタルモニタが何台も置いてあるだろう。


技術革新とは「モニタ」である。4Kとか8Kといった、それ普通のテレビに搭載してもほとんど意味ないのでは? という高解像度のモニタが、病理プレパラートをスキャンした画像を見る場合にはめちゃくちゃ役に立つ。

モニタの解像度が高いと、プレパラート全体像を投影したあとに、画面をいちいち拡大しなくても、自分がそのモニタに近づいていって目をこらせば、細部まで見えてしまうのである。こんなことは今まで絶対にあり得なかった。





で、それだけではなくて、ぼくがおもしろいなーと思ったのはここからだ。

なんと、デジタル画像で「プレパラートの全体をざっと(高解像度で)目に入れる」と、それだけで、拡大倍率を上げることなく診断ができてしまうことがけっこうある、というのだ。今までさんざん顕微鏡倍率を上げたときの細胞の見かたばかり訓練してきた病理医たちはこの話を聞くと、

1.一瞬おどろき、
2.そして納得する

のである。細胞が織りなす高次構造のゲシュタルト(全体がかもしだす雰囲気的なもの)が、その病気の正体をフワーンと頭に思い起こさせる。たしかにこういう現象はありそうだなと、顕微鏡で形態診断をしてきたプロたちは、最初とまどいつつも納得するのだという。

もちろん、だからと言って、せっかく顕微鏡検査なのに拡大しないなんてもったいない、という思いはある。拡大してはじめてわかる細胞性状というのも山ほどあるので、「俯瞰だけで終わりにはしない」のはまあ当然なのだけれど、このとき「デジタル病理医」は、

・俯瞰したときのインスピレーション(直感)を確認しに行くような気分で、倍率を上げていく

のだそうだ。うーん、かっこいいな……。

具体例をひとつだけ挙げておこう。

胃のプレパラートをざっと俯瞰すると、最強拡大で見ないとわからないはずのピロリ菌が、なんとなくそのへんにいそうだということが直感的にわかるというのである。

えっそれ無理でしょ……と思うのはたぶん病理医の経験が5年未満の人だ。それ以上やっている病理医なら、「あっ……それなんとなくわかるかも」と言ってくれるのではないかな。似たような話は『病理トレイル』(金芳堂)にも少し書いたかもしれない。



プレパラートがデジタル化したことにより、病理医が細胞をさまざまな倍率で観察するときの、「倍率設定」が増えた。カメラマンが望遠レンズだけではなくパノラマレンズを手に入れると撮り方が変わるようなものか? うーん、どうもそれだけでもない、ここには「病理医にしかわからない快感」がある気もする。

なお、「快感の質」は病理医にしかわからなくても、その恩恵はたしかに患者や臨床医に届く。病理医が今まで以上に形態診断にさまざまなやり方でアプローチすれば、その結果はきっと、今まで以上に応用しやすい診断情報として、医療を支えることができると思うのだ。いいことしかねぇな。