2022年4月4日月曜日

ドントフィールシンク

辻褄(つじつま)という言葉をわりと気軽に目にする。それってつじつまが合わないよねー、みたいな。


今のたった二文だけで何を言いたいかわかった人もいるかもしれない。


「つじつまが合う」という言葉の浸透度のわりに、「辻褄」がなんなのかを即答できる人の数は少ないと思う。言語ってふしぎだね。辻は縫い目の一種で、褄は和服用語だそうだ。ぼくだってこんなの知らなかった。元ネタをわからないまま、「つじつま合うね」とか普通に使っていた。


「つじつまが合う」 → 「辻・褄が合う」 → 「十文字に重なる縫い目がぴったり合う、和服の襟と襟とが重なる部分がぴったり合う」


という意味なのだそうだ。へええぇぇ。衣類関連の言葉を二つ例示して強調し、「それくらいぴったり合う」というニュアンスを、「動作込み」で内包した言葉だったのか。「イヌ派喜び庭駆け回り、ネコ派コタツで丸くなる」みたいな羅列。今ちょっと漢字の変換を間違えましたけれども。


そんな由来を一切かんがえずに、ただ漫然と、「つじつまが合う」という言葉を過去に聞いた・使ったときの状況と雰囲気が似てるから、という意味で、ぼくはこれまで「つじつまが合わないなー」みたいなことを言ってきたのだ。うーん、脳と言語の関係ってすごいな。



理屈じゃないのだ。物語ですらないのかもしれない。クリアファイルのように半透明なレイヤーとレイヤーを瞬時に重ねて、「おっ、ぴったりじゃん」くらいでゴーサインを出す。



死語となったが、かつて若者の間で「フィーリング」という言葉が流行った。そしてすぐに廃れたのだが、それより年上の世代では長らくフィーリングという言葉が便利使いされるようになり、なんなら今でも「フィーリング」という言葉で何かを説明しようとする人たちがいる。雑な言葉だなーと思っていた。似たような意味でm「Don't think, feel」を名言的に使う人もいまだに目にする。


ただ、たぶん……本質なのだろう。エビデンスでもない。ナラティブでもない。人は瞬時の絵合わせで動く。ニュアンス合わせ。情合わせ。そこに照準を合わせて言葉を選んでいくのが医療者の仕事なのかもしれない。ところで「照準」はなぜ照らし、なぜ「準」なのだろうか? 基準、水準、「目安となるもの」を、「照らす」のが、なぜ「ターゲットを明確に狙うこと」という意味をまとうのだろうか? ……こういうのを調べることなく使っている我々の間で、さほど不自由なく意図がきちんと伝わっていく、ということ。