2022年4月6日水曜日

沖縄弁ってこういうときすごいべんり

ケアの領域で頻繁に用いられるようになった「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉がある。


軽くググると、日本語訳として、「不確実さに耐える能力」という言葉が出てくる。白黒はっきりしない状態でイライラせずに、「ま、そういうのってなかなか正解を決められないよねー」と、「決まらなくてもいいさー(沖縄弁)」と、不安定な状態を許して生きていくようなイメージで使われることが多い。


でもそのままググりを続けていくと、もともとこの「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を用いた詩人は、「確かなものに触れるためには想像の中で真実を見出すしかない」というようなことを同時に言っている。


想像の世界にだけ、「神聖な真実」がある。ただしこれには、現実世界でどのような手段を用いても触れることができない。「真正性」と現実とは乖離しているからだ。真実はいつもひとつかもしれないが、現実はいつもそれと微妙にずれていて、そのハザマでぼくらは物事をひとつに決められずにゆらゆら揺れている。「真実と現実とのずれ、揺れ」を受け入れる力、それがネガティブ・ケイパビリティだ、というのが元々の意味らしい。


となると、これは、だいぶ西洋的な、あるいはキリスト教的なものの考え方だなあということに気づく。歴代の西洋哲学者たちがずっと気にし続けてきた、「神」を思索のなかにどう位置づけていくか、みたいな話とも通ずるところがあるように思う。


逆に言えば、「少なくとも想像の中では、絶対の真実がある」という思考が、人類すべてに備わっているとは思えない。たとえば、老荘思想とか、有為転変(仏教)という考え方は、絶対の真実を想像すること自体から距離をとっているように(ぼくには)見える。



と、ここまで考えて思った。

死生観とかケアの話をするときに、西洋論理がマッチするタイプの人は近年ネガティブ・ケイパビリティのことを言うし、近代の仏教がマッチするタイプの人だと一切皆苦のことを言う。これらは結局どちらも、


「なんで最後が苦しみなんだ、どうして幸せが永遠に続かないんだ」

「幸せなままずっといられる理想を追い求めてはいけないのだろうか」


という、生きることに対する根源的な欲求を乗りこなすための思考回路であろう。そして、ネガティブ・ケイパビリティのことにも仏教のことにも一切興味がない人たちも、しばしば、ほとんど同様の思索を、シェークスピアや太宰治を通じて深めていたりする。




「優れた脚本の類型はすべてシェークスピアが先に書いている」と言った人がいる。けれども、さまざまな思想や宗教を拾い読みしていくと、シェークスピアほどわかりやすい形ではないかもしれないが、「どうしてもっとこうならないのか?」という、人間の望みと現実とのかけ離れは古今東西さまざまに書き表されている。


あるいはぼくらの脳にはデフォルトで、「人間はこういうものに苦しむようにできている」という統一の類型があるのだろう。ただしその根源に触れられるのはぼくらの無意識だけで、意識的にそれを直接引っ張り出すことができないから、間接的に、宗教とか思想とか文芸というかたちで、そのまわりをぐるぐる回って、ときどき触れてなぞりながら、「脳の中だけにある真実」が本当はこうなのではないかとあれこれ試行錯誤して考えている。だから、洋の東西を問わず、宗教の違いを乗り越えて、似たような思索が形を変えて……


……という最後の思考様式は、おそらくちょっと西洋哲学寄りなのだろうな、なんてことをふわふわと考える。なんどもコスられてきた話をぼくもコスっている。