2022年4月1日金曜日

病理の話(642) アーチファクト

われわれ病理医は人体から採ってきた細胞を見て、それがどういう病気なのかを診断する。

ただし、「細胞を見ただけで病気がわかる」というわけではない。どちらかというと、


細胞がどのように並んで、どのような構造を作って、どこに分布しているのか


が重要である。細胞1個を見るのではない、複数の関係を見る。


たとえば、「がん」という病気のことを考えよう。がんの病変部から細胞を採ってきて調べる。その細胞は「非常に顔付きが悪い」。細胞の中にある核のかたちがおかしく、細胞質の色合いも変化している。

道を歩いている人たちの中に、右手に拳銃、左手に違法薬物を持って上半身が裸で背中に昇り龍が彫られている人がまぎれていたら「あいつヤベェ」となる。がん細胞にもそういう「ヤベェ」があるので、顕微鏡で拡大すると「それががんかどうか」がよくわかる。


では、われわれ病理医が常に「顕微鏡の最大倍率で細胞を拡大しまくって、1つ1つ調べている」のかというと、そうではない。

もう少し、拡大しないで全体を見る。


がんは、細胞同士が徒党を組んで、「本来いてはいけないところに攻め込んでいく」という病気だ。細胞たちが集団で立ち入り禁止区域に入り込んでしまう。

胃癌を例にあげよう。胃の粘膜の中にある「腺上皮細胞」が、粘膜下層や固有筋層と言った、「本来そんなところにいてはいけない場所」にしみ込む(浸潤する)。さらには、リンパ節や肝臓、肺のような、「まるで違う場所」に飛び散っていく(転移する)。

このような、浸潤・転移といった「居場所のエラー」があれば、細胞を拡大しなくてもそれはがんだとわかる

見た目がどれだけ善良そうであっても、居場所がヘンならそれはヤベェのだ。

黒髪ロングにセーラー服でトートバッグの中にゲーテの詩集を入れている美しい委員長タイプの女の子が、20人くらい集まって、公園の男子トイレの屋根に登っていたら、「ヤベェやつアラーム」が鳴り響くであろう。



したがって、普段、われわれ病理医は、細胞の配列や居場所を念入りに調べるくせがついている。「お前ここにいるのはおかしいだろ!」の目。鳥の気分で俯瞰して、ロングショットで現場を見渡すのだ。ただしここには落とし穴もある。



たとえば、胃の手術標本を見ていると、胃の壁の中にある筋肉に、本来であれば粘膜にいるはずの「上皮細胞」が紛れ込んでいることがある。

そこで、「あっ、浸潤だ!」と判断して、つまりこれはがんだ! と診断書を書くのだが……このとき、あわてずに、その細胞を拡大する。

それが「委員長」だ。善良そうなのである。

うーん、なんで委員長が、こんな立ち入り禁止区域に、ひとりで紛れ込んでいるんだろう?

あなたは疑問に思う。そして、まわりをよく調べる。

細胞をみるために作成したプレパラート。よーくみると、「委員長」がいたあたりだけ、いくつか小さく穴が空いている。

プレパラートの上にのっている細胞は、「本来は厚みのある検体を、かつらむきにしたもの」だ。わずか4マイクロメートルというペラッペラの薄さにして、色素で色を付けて、下から光をあてて透過光で観察することで、細胞をよりよく見えるようにしている。

この、「4マイクロメートルのかつらむき」は、一流の検査技師によって生み出されるのだが、たまに、シワが入ったり、「かつらむきをしている最中に、ナイフに残った別部位の細胞がまぎれこんだり」することがある。

そう、「混入」なのだ。だから本来いてはいない場所に細胞がいたように見えただけ



このように、元々あるべき姿とは違う像が見えてしまうことを「アーチファクト」という。アーチファクトのアーチ(arti-)は、人工知能 artificial intelligence のarti-とおなじで、人工的な、人為的なというニュアンスを含む。

あらゆる検査にはアーチファクトがつきものだ。そして、病理医は、アーチファクトを真の病気と見間違えないための訓練を積まなければいけない。

先ほどのように、「胃壁の中に浸潤がある!」と思っても、そこでぐっと踏みとどまる。たとえば顕微鏡の拡大倍率を一段上げる。そして細胞の顔付きを見る。「こいつ、本来のがん細胞よりも、異型(=正常からのかけはなれ)がないなあ……」と気づけば、これがアーチファクトではないかと類推することができる。



ただ……最後に話をひっくり返すと、人体においては、「委員長も大犯罪に手を貸すことがある」のだ。見た目が悪くなさそうだからと言って犯罪をおかさないわけではない。そこで、細胞の顔付きとも、居場所とも違う判断基準をいくつも用意して、複合的にそいつが悪いやつなのかどうかを見極めることになる。続きは医学書で。