「市原先生のお仕事の方向をこちらから縛ってしまうより、ある程度自由に動いていただいたほうがよい気がしました。」
という文言付きで原稿を依頼されることがある。けっこうある。2回に1回くらい、そうだと思う。
ありがたいことだ! 自由にやっていいなんて! という気持ちと、企画作りの段階からこっちに投げられちゃったけど報酬は原稿執筆分だけなんだよなあ、という気持ちと、ふたつが同時に湧き上がってくる。これらはべつに相反する感情ではなく、ふつうに同棲できる。二項対立にせず、そのままどっちも抱えて働くことができる。
ところでなぜ人はこのような原稿依頼をするのか。
たとえばSNS医療のカタチという活動で、医療従事者に講演をお願いすることがあるのだけれども、そのときのぼくがまさに、「どんなことをしゃべっていただいても大丈夫です」と言っている。
こちらから講演の依頼をするのだから、普通に考えたら「この人にはこういう内容をしゃべってほしい!」と、お題を指定するのが本来の礼儀である。
しかし、なんというか、礼を失したことをしたいのではもちろんなく、
「この人はどんなことをしゃべっても絶対におもしろいことを言うに違いないから、ぼくごときが余計な『縛り』をかけるより、その日にしゃべりたいことを自由にしゃべってほしいなあ!」
ということを本心で考えている。
……そして、同時に、「しゃべる人の業績を全部ゴリゴリ調べて、何をしゃべってもらうかを考える時間がないので、お題までおまかせできるならそのほうがありがたい」と思っている。つまりは依頼するほうもたぶん両方の感情でやっているのだろう。
両方の感情、と書くと、対立概念のようでしっくりこない。たぶんこういうのは、色に例えるといい。赤と緑は、色相環に置けばいちおう反対側にあることになっているけれど、混ぜて毎回真っ黒になるわけではない。パレット上での色の溶き方にもよるし、筆の置き方にもよる。赤い感情と緑色の感情とを混ぜながらぼくらは何かを考える。おまけにたいてい混ぜているのは黄色と緑だったり、青と赤だったりして、きれいに混ぜ切らないで、マーブルみたいな状態のままで、いろいろな絵を描いている。頼む方も、頼まれる方も、黙ってひとりでやっている人もだ。