つきあいのある編集者の仕事環境がよくなく、精神状態が悪く、そのつらさが一緒に働いているこちらにも浸みだしてくる。人のつらさに共振してぼくも一緒につらくなる。よくないことだと感じる。
つらく働いている編集者たちから、ぼくはそろそろ距離をとろうと思う。とりあえずツイッターのアカウントはミュートした。
「今まさにつらい編集者を見捨てるなんて薄情だ、お前が書けば楽になるかもしれないのに……」という考え方もあるだろう。しかし一緒に沈んでしまえば救助もできない。
これが仕事相手でなく、仮に家族や友人だったとしても、一蓮托生的にストレスを共有してしまうことはよくない。他人だからできる距離の取り方というのがある。そういうのが結果的に双方にとってつらさを減らすことにつながる。
つらいつらいと仕事をする編集者たちの仕事を手伝って、少しでも楽にできたらいいなという気持ちはずっとあった。これまではそのようにやってきた。しかし、ぼくがいくら原稿を早く仕上げても解決したためしはない。たとえば、締切より1か月早く原稿を出しても、いつのまにか校了は締切直前になっている。ぼく一人が仕事を早めたところで、出版物やネット記事というのは著者の原稿だけでできあがるものではなく、デザインもあり、イラストもあり、何より編集者が心行くまで調整をかけるのに時間がかかる、そういった他の仕事がすべて早まらなければ、全体の進行は早くならない。余裕をもって進めたはずの仕事は、いつのまにかぼくにとってもぎりぎりの進行になって戻ってくる。
ぼくは仕事が早いから、なぜか締切に追いつかれてしまった仕事もまたすぐに仕上げてふたたび余裕をもうける。いつの間にか溶けてなくなった1か月の余裕、どうして再校の時間が1日半しか与えられないのだろうと不思議に思いながら、原稿を2時間で手入れして、逆に1日の余裕を再度作って送り返す。その間、ぼくの他の仕事はパニックのように忙しくなるが、「編集者がつらそうにしているからその忙しさを飲む」。これまではそうしてやってきた。その間ずっと編集者たちは裏アカウントで仕事がつらいと愚痴を言い続けている。これは何なのか? といつもぼんやり不思議に思っていた。
何なのか、というか、出版とはそもそもそういう世界なのだろう。出版業界のやり方が彼らにとって悪いものだから直せとは、外にいるぼくからは言えないし言うべきでもない。ただ、それがぼくの世界を少しずつ侵食してきているような気はする。なぜぼくが休憩も睡眠も削って1か月以上早く仕上げた原稿の著者校に、たった1日しか時間が与えられないのか?
かつて、古賀史健という人が、プロのもの書きとアマチュアのもの書きの差は「プロの編集者がきちんとついて著者と伴走しているかどうか」にあると言った。たしかに、編集者がいるといないとでは文章に雲泥の差が出てくる。編集者にたよらずに一人で何かを書いて世に出すと、どこかに間違いがあったり、不適切であったり、届きづらい部分があったり、曲解されたり、そういった不都合がいっぱい起こる。
でも、ふと思う。プロの書籍編集者を名乗る人間であっても、本当に著者と伴走できているタイミングはそんなに多くないのではないか? 彼らは基本的に出版側のルールで忙しさにおぼれ、自分がもがいて竜が淵から脱出するために、著者をビート板代わりにわしづかみにして必死にバタ足をくり返す。それは果たして伴走だろうか。爆発的に売れた本の担当編集者が顔を出して語る記事を読んだあと、どれだけよい本なのかと思ったら、著者の思いではなく編集者の思いばかりが伝わってきて、「著者がその人である必要性」が埋没してしまうということがある。著者と編集者が「そのコンビでなければ生み出せない関係」になっている本に出会えることはまれだ。そして、自分がこの先そこまでの関係を編集者と築いていけるかどうかの……自信が無い。
ああそうか、つまりぼくはプロの著者になれていないのだ。ぼくがプロになれていないのだ。今、書いていて思った。「プロの編集者がいないから」ではなく、「ぼくがプロの編集者と仕事をできるクオリティに届いていない」。だから編集者もプロの仕事を発揮できない。
ぼくが最初の原稿で編集者をうならせていれば、そもそもあんなに校了ぎりぎりまで編集者が頭を悩ませてぼくの書いたものを直す必要がない。ぼくのせいで編集者たちの仕事が増えるのだ。ぼくは仕事が早いのではなく、時間をかけて集中してぎりぎりまで粘っていいものを出そうとしていなくて、仕事の手離れが早いだけなのだ。「泳げるから大丈夫」と言って池に飛び込んだぼくがそのまま沈んでいこうとしているのを、編集者たちは必死で救助していた。ぼくは「一人で大丈夫なのになんでこいつらぼくを掴んで必死でバタ足してんだ?」と思っていた。
彼らのつらさの原因は、ぼくにある。そう考えれば、「ぼくが出版から距離を置こうとしている」という言葉のニュアンスもだいぶ変わってくる。
締切ぎりぎりまで粘れる人以外は原稿を書く資格なんてない。ぼくの仕事が早いうちは、執筆なんてしてはいけない。ぼくはゆっくり書く練習をするべきなのだ。ぎりぎりまで真剣に向き合うことをこれまでやってこなかった報いだ。今、ようやくそのことを知ったのだ。
今にして思えば、ぼくが好きな作家、エッセイスト、そういった人びとはみな、締切ぎりぎりまで自分の原稿を練り込みまくって、初稿と出版物とが9割がた別モノになっているような人ばかりだった。なぜぼくは、尊敬する人たちのやり方を今まで一度もマネすることなく、あらゆる原稿をさっさと書き上げてきてしまったのか。