2022年7月8日金曜日

病理の話(675) 学生さんと話しながら

うちの病理にはよく学生さんが見学にいらっしゃる。半日、というパターンが多い。

そのときは実務をご覧頂く。見学ツアーだ。

オンザジョブトレーニング的に、なにかプレパラートをひとつ渡して、診断の手伝いをしていただく手もないわけではないのだが、それだと、顕微鏡を見て無言で考えて本を読んで、いわゆる「学校でもできるやろ、これ……」的展開になりがちである。

病理を短期に見学するならば、ぼくが診断したり作業したりするところを横で見てもらうのがやはり一番よいだろう。

2週間くらいいるなら診断の手伝いもやってもらうけれどね。



で、昨日も学生さんがいらっしゃったので、できあがったばかりのプレパラートを顕微鏡で一緒に見ながら(複数人が同時に顕微鏡を見られるシステムがある)、ぼくが考えたコトをそのまま口に出して伝える。


「これは乳腺の手術検体ですね。端から見ていくと、まずこのあたりには脂肪が豊富にあって、間質には血管や、線維、まれに神経といった構造物があります。『上皮』はこのプレパラートには見当たりません。上皮細胞を見つけてその異常を確認する作業は、病理医の顕微鏡業務のだいたい8割とか9割とかを占めます。それくらい上皮細胞はだいじ。上皮以外も見るけれど、上皮が見当たらないプレパラートでは少し検索は楽です。さあ次々とプレパラートを見ていきましょう。」


こういうのは一切減速しないでしゃべる。話し言葉というよりは歌に近い。なんとなく聞こえてくるなー、という程度でよいと思う。大事な話が出てくるまでは歌うように。聞いているほうもリラックスして流し聞くように。生真面目な学生だとそうもいかなかろうが、モノゴトにはなにごとも、メリハリというものが必要である。


「……あ、上皮がありましたね。これは癌かな。いや、癌ではないですね。」


このへんでしゃべるスピードを抑える。


「そろそろ癌が出てくると思います。肉眼的に病変を確認して、プレパラートで病気の部分が見られるように標本作製していますからね……ほら、言っているそばから、ここが癌です。では拡大を上げましょう。」


歌うような説明をやめて、チューター的なしゃべりにシフトする。最近の学生さんたちの情報受信用脳内OSは「倍速再生」を苦にしないが、ここぞというタイミングではやはり標準速度、もしくは1.25倍再生くらいの速度まで落としたほうがよいようだ。


「拡大を上げると、癌細胞は、周囲にある正常の上皮とくらべて、さまざまな異常を持つとわかります。核が大きく、核膜が不整で、核型がごつごつとしていて多彩性があり、内部のクロマチンの量が多くて分布が不規則。核小体もみられるし、少し探すと核分裂像もありますね……だから癌と診断できます。ただし……。」


いったん顕微鏡から目をはずす。学生はまだ顕微鏡を覗いているが、しばらく待つと、こちらを見てくれる。それを待ってしゃべる。


「ぼくは今、拡大を上げる前に、『ここが癌ですね』と言いました。強拡大倍率で、核の様子を逐一みなさんにご説明するより先に、もう、癌だと半ば確信していた。

それは、顕微鏡の拡大をあげなくてもぼくが『核所見』を判断できるほど視力が良いから……ではなくて、『癌細胞と周囲の構造とが醸し出す雰囲気』から癌だと仮診断しているからです。

弱拡大の段階で、雰囲気、第一印象から癌だろうとわかる。倍率を上げて核のようすを確認するのは、あくまで、それが間違いなく100%癌であることを確認するための、念のための作業。

そして、病理学をさほどわからない臨床医に対してこれが癌であると理解してもらうためには、そこにある異常を言語化することが大事です。病理医が自分の中だけで癌だとわかっていればOKというならば、言葉にしなくてもいいし、なんなら、拡大倍率を上げなくてもよい。しかし、病理診断は主治医に読んでもらう必要があり、患者やほかのメディカルスタッフと共有され、今後の診療方針を左右する情報として現場に残り続けます。病理医だけがわかっていてもしょうがない。

だから、不特定多数の人を説得するための言語化をする。

このとき、言語は、じつは自分をも説得するんですね。

癌を癌と言い切ることにはとても大きな責任がかかります。「なんとなく癌だと思いました、雰囲気で癌に違いないと考えました、私にはわかるんです」では、自信を持って診断し続けられません。自分の感覚がぶれたら診断もぶれるということに対する恐怖・不安はバカにできない。自分がなぜ癌だと思ったのかを、後付けでもいいのできっちりと言語化することは、他者とのコミュニケーションに役立つだけではなく、自分を安心させますし、診断自体のクオリティも保ってくれます。

『私というプロが癌だと言っているのだから他分野の人はそれを信じてください』を10年続けると、自分の診断基準が少しずつずれていきますね。そういう主観的な病理診断をやってはいけない。逆に言えば、病理診断が超絶難しい病気であっても、病理未経験の臨床医がわかる言葉で説明できるくらいに客観視して言語化できていれば、ぶれは少なくなります。

というわけで、我々は顕微鏡を見ながら、1秒にも満たない時間で、ああこれは癌だなとか、癌がここまで広がっているなということを察知するのですが、そこで仕事を終わりにせずに、必ず言語に追随させる。ここにけっこう時間がかかるのです。5分、10分、難しいときは数日かかることもあり得る。

たとえば今この視野に映っている細胞、ぼくが癌細胞だと思っているものを、写真に撮って、下に解説文をつけて、ツイッターで世界に公開したとしましょう。そしたら、『おい、それは癌じゃないんじゃないか?』というクソリプが飛んでくる。でも、飛んでくるようなら、その病理診断は二流なのです。細胞像を誰が見てもわかるように言語化し、解説して、世界の誰が見ても『確かに癌だな』と感じられるような文章にしておけば、クソリプは飛んできません。」


学生さんのほうを見て、顕微鏡に目を戻す。


「……あ、今のは例え話ですよ。患者から得られたプレパラートの写真を安易にツイッターに載せちゃだめです。たとえ勉強目的であっても。もし自分がその患者だとしたらいやな気分になるでしょう。病理写真をツイッターに載せて勉強してる人って、たいてい、勉強したいんじゃなくて、『勉強している自分を世界に公開するのが好き』なだけだったりしますからね。そもそもそういう人が投稿するツイートは、写真のクオリティも低いし、診断根拠もあいまいで、あんまり頭良くない人がやってんなーってわかっちゃう……」


歌うようにクソツイッタラーをディスるぼくに学生さんは苦笑する。そしてぼくらは次の細胞を探して言葉を継いでいく。