2022年7月15日金曜日

怒りの窓と虫の心

政治についてのツイート自体は悪いとも思わないし、どんどんしていただければいい。ただし、それが冷静であるかぎり、の話。

世の中が選挙ムードになると、タイムラインに「冷静な議論が苦手な人たち」の割合が増える。選挙の前後でフォローの仕方を変えているわけではないのに、だいたいそうなる。しんどいなあと思う。


選挙があってもなくても、始終なにかに怒っている人たちというのがいる。自分の気持ちを『怒り』を介してしか外に出せない人だ。心の部屋の四方に、「笑い」「怒り」「分析」などと書かれた窓枠があって、たいていの人はそのいくつかを開けて外の空気を取り入れたり、外に向かって声を出したりするのだが、何かのきっかけにより、あるいは経験と慣れにより、「怒り」以外の窓を空けなくなった人。そもそも「怒り」しか窓を持っていないという人もいるように思う。

「怒り」を用いなければコミュニケーションがとれず、部屋の換気をする=自分の心の風通しをよくすることができない人たち。

そういう人に、「怒ってばかりだな、もう少しやり方を変えろ」と言うことを、最近のぼくは控えるようになった。あまりに容赦ない、救いがないと思うからだ。心に窓を造設するのはそう簡単なことじゃない。怒るしかないという人のありように対して、共感はしないまでも、理解はできる。そういう人は怒っていいのだ。ただしその怒りに巻き込まれたいとは思わない。


社会はそうした「怒りのかたちでしかコミュニケーションをとれない人」にも開かれているべきである。自分から見ると「筋の通っていない政策」をかかげている政治家が、街頭でひたすら対立政党の悪口を「怒り心頭」の風情でがなりたて、それに票を入れる人がけっこういるという事実がある。「なんであんな、怒りだけの人間に票を入れるんだ」と昔は思っていたが、今は違う。怒りどうしが手を繋ぐタイプのコミュニケーションは一種の「ケア」なのだ。選挙とはある種のケアを提供する場で、投票とは国民に与えられた、「みずからが緩くつながる紐帯を確認できるチャンス」なのである。怒りによるコミュニケーションは必要悪? いや、悪と言ってもいけない。多様な世の中の一部に純粋に「必要」なことなのだ。……鳥の目で社会を見た場合には。


そしてぼくは虫の目に戻って自分のことを見る。怒りのツイートは日頃ぼくのツイッターアカウントには届かない。そういう人をそもそもフォローしていないし、ぼくは怒りの窓を開けたくないタイプの人間だ。怒りの窓を開けるタイプの人はそのまま暮らしていてほしいが、できれば、ぼくのおうちの側に家を建てないでほしい。

実際、日頃はきちんと住み分けて、なんとかうまくやっている。

ところが、選挙前になると、ぼくがフォローしている人たちの一部が「誰かの怒りツイート」をRTするようになる。トレンドにもわりと「怒りによるコミュニケーション」が並びやすくなる。結果的に、これまで目にしなかった量の「怒り」をタイムラインで見かける。これがしんどい。SNSにおける選挙期間は、「怒りによってコミュニケーションするタイプの人を重点的にケアする週間」なのかなあと感じる。そのケアを止めてはいけない、と、鳥の心は理解しているけれど、虫の心に傷が増えていく。選挙が終わってしばらくすると怒りによるコミュニケーションの総量が少ない世界がやってくる。ぼくはほっとする。でも、選挙期間に活き活きとしていた人たちが再び心に澱んだ空気をため込んでいくだろうことを思って、喜んでばかりもいられないんだよな、と、いったん全ての窓を閉めて室内で音楽でもかけながら目を閉じて考え事をする。最近、よく、目を閉じて考え事をする。SNSはケアの場だ。誰に対してもそのケアは及ぶべきだ。しかし、種類の違うケアは、残念ながら、順繰りに、交代交代でなされていくべきもので、どこかをケアしている期間にはほかの箇所におけるケアが手薄になる。虫は一滴の水でおぼれてしまう。いつも鳥でいられればいいのだが。