2022年7月5日火曜日

笑い話の凄さ

ワンピースってまとめて読んだほうがおもしろいな、ということを、何度目かわからないけれどさっきも考えた。毎週ジャンプで欠かさず読んでいるけれど、コミックスになってから直近の10巻分くらいをまとめて読み返すとうねりが段違いだなあと感じる。


世に満ちあふれている「ネットで連載されているマンガ」をそのまま本にしたものを読むと「ああ、ネットで連載していたやつだなあ」と感じてしまうことがある。初出がネットだと知らずに読み始めていてもわかる。おそらく、全編を貫く一貫性みたいなものが、ネット連載の忙しさではとろけてしまうのだろう。短い締め切りにあわせてその場で微調整をかけ続けるような執筆方法だと、あとでまとめたときに整合性がとれなかったり、「行き当たりばったりの展開」が多くなる。序盤に仕掛けた伏線を回収するために後付けで設定をねじ曲げなければいけなくなったりもする。


その点ワンピースは連載当初から、1年後の絵、10年後の絵、1000話分の絵がある程度見えた状態で描かれている。週刊連載用に断裁することでむしろ毎話の勢いは削がれてしまうのだけれど(それでも凡百のマンガよりおもしろいが)、あとでまとまったものを読むと「ははーなるほどなー」となる。


だいたいマンガは単行本になる際の修正が(小説と比べても格段に)大変なのだ。ところがワンピースの場合は「あまり修正しなくてもなんとかなっている」。これはすごい。ほんとうに立派な創作だと思う。




そして今日の本題はそこではない。ワンピースと比べると自分の人生のノンフィクション性が際立ってくるという話をしたい。ぼくは20年以上前に自分が考えていたことを一切思い出せない。自分が「ジャンプの誌面」に登場したタイミングを何歳と考えるかはともかくとして、たとえば「単行本1巻のときのぼく」が口にしていたことを現在の「単行本102巻を生きているぼく」はすべて忘れてしまっている。週刊どころか秒刊で連載されている自分の人生は、毎話更新されるたびに本筋が微調整されており、過去に貼られた伏線はほぼすべて消失してしまっているか無意味化している。むしろ、瞬間的に意味化した部分だけで暮らしているというか、意味のエントロピーが限局的に低下した部分を選んで歩いている印象がある。ドラクエIで「たいまつ」を使わずに洞窟を歩いている。


ぼくという連載はまとめて読むと別におもしろくはないのだ。毎秒きちんと誌面で読んでいるとそれなりに盛り上がりもあるし、ダレたシーンも山盛りだが、微弱な電流のようなカタルシスを感じる瞬間も何十万秒かに一回は現れてくる。ただこれを単行本化しようと思うなら、作者の特権としてかなりの修正をかけないと、読者にとっては何を読まされているのかわからなくなってしまう。セリフは変えるし、キャラの顔も変えるし、ひどいときは数話まとめて差し替えたり、単行本オリジナルエピソードを書き下ろしたりしないと「商品としての単行本」にはならない。その点ワンピースは偉い。「効かないねェ ゴムだから」の表情が100巻跳び越えても通用するなんて話、常人にはまず、生きることができない。