2022年7月28日木曜日

ゆがみ一刀

雨に濡れて1分後に「はっくしょん!」はなかなかないですからねえ~。


ポッドキャスト「熱量と文字数」に出てきたこの一言に、ぼくは唸った。「アニメゆえの文法」についての話である。

梅雨時、びしょぬれになって軒下に逃げ込んだ女子高生が、すかさずくしゃみをするシーンは何度も描かれているようだが(ぼく自身はあまり見たことがないが)、現実にはそのような人はいない。水に濡れてもすぐに体は冷えないし、鼻からしずくを吸い込まない限りたかだか1分程度でくしゃみは出ない。しかし、「はっくしょん!」が総体としての情景をまるまる伝える表現であることは、おそらく間違いない。「目に浮かぶようだ」。

ちなみに、舞台演劇でこれをやられるとたぶんすごく冷める。創作ならなんでも許容されるわけではない。アニメだからこその表現なのだろう。


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ぼくはアニメをそんなにいっぱい見てきたわけではないが、アニメというジャンルの特異性のひとつは、「パースを意図的に狂わせることで見るものの印象を操作する表現」にある気がする。アニメでは必ずしも現実の風景がそのまま写実的になぞられているわけではなく、さまざまな「狂わせ」が仕込まれている。現実には歪むことがないパースをこっそりと歪ませ、それによって視聴者は、たとえば「あたかも自分の立ち位置が画面に近寄っているかのような錯覚」を受けるし、「登場人物たちが体感(錯覚?)している世界のゆがみを、登場人物たちの体に入り込んだかのように体験」することができる。パースが歪むと、「視座」がずれる。


「視座」の移動は、テレビドラマや演劇、あるいは写真でも用いられている技法なのかもしれないが、これらの実写映像表現が操作するのは基本的に「視座」ではなく「視線」のほうではなかろうか。視聴者はあくまで客席、あるいはテレビ・パソコンの前に座ったまま、画面のどこかを見るべく「目を動かす」。その視線を自在にコントロールするためのさまざまな技法は、実写作品にも確かに存在する。しかし、「視座」自体が動かされることは少ないように思う。体感型IMAXシアターのように「映像に没入する体験」をうたうサービスもあるが、逆にいえば、シアター側をいじらないと没入までたどり着けないということだ。「いやいや実写映像でも、思わず酔ってしまうくらいの没入映像はあるぞ!」などと言ってCGてんこもりの映画を紹介されてもなあ、という気持ちもある。「気づいたら主人公の心情に自分を重ねていたよ」というのはあくまで精神の没入であって、身体的な視座までずれたかのように感じる経験は、実写作品ではあまり味わえないように思う。


アニメは、「視線」の誘導も行うが、加えて、「あたかも本人の位置が客席からスクリーン側に近寄るかのような」、「テレビ前からいつのまにかテレビの中にいるかのような」視座自体の誘導を他よりも強めに行っている印象がある。カメラワークやライティングだけでは達成することが難しい、現実にはありえないパースの歪みを用いて、現実には寄り切れない場所まで近寄ったときの光景を錯覚させるという表現。


そしてここでようやく冒頭の話に戻るが、アニメではパースだけではなく、時間軸も意図的に歪ませているのであろう。くしゃみが出るのは現実には体が濡れてしばらく経ってからかもしれないけれど、そこをあえて歪ませて、軒下に入って1分待たずに「はっくしゅん!」を描く。これは描写のための歪ませなのである。本来であれば「間が空く」はずのできごとどうしを近接して描くことで、ナラティブの起伏が強調され、アニメの時間に現実にいる視聴者が急速に没入していくのである。

ここで言う「間を歪ませること」は必ずしもアニメだけに特有の文法というわけではなく、それこそ舞台演劇やテレビドラマなどでも頻繁に認められるが、舞台やテレビなどではあまりわかりやすく間が調節されていると「現実離れ」の感が出やすいように思う。興ざめするというか。何事にもさじ加減とバランスが大事である。しかしアニメの場合はわりと大さじを使って、しっかりと味付けをされているものが目立つ。

なぜアニメでは「実写より強く歪ませること」が許されるのかというと、「意図的な歪ませ」が時間軸情報以外にも大量に存在するためではなかろうか。パースだけでなく、たとえば目のサイズ、発声方法といった身体的(?)な描写から、科学技術のようなバックグラウンドにかかわるもの、脳内風景がカットインやナレーションで表現できることなど、アニメの中には無数の歪みがあり、これはあたかも脳内で再構成された記憶の歪み方のようだ。



実写映画のキャッチコピーでよく見るものに、「ありふれた日常が少しずつ歪んでいく――」のようなものがある。実写はやはりお作法として「少しずつ歪ませる」ものなのだろう。一方のアニメは「思い切って視座ごと引き寄せてぐいぐい歪ませる」部分に味わいがある。実写は見るものに作為的な歪みをいかに気づかれないかに心をくばり、結果としてそれを見た人の心の中に大量の「歪ませられた記憶」を蓄積していくものであり、アニメは見るものに「この歪みを見てくれ!」と堂々と提示して、視聴者の心の中で元から歪んでいた何かに静かに寄り添うような印象がある。以上はすべてぼくなりの視座からぼくなりの視線で観察した歪みに歪んだアニメの話である。