キャリアに悩む研修医から、進路の相談を受けていたときの話。
「病理医って魅力ある職業だなとは思うんですけど、やっぱり顕微鏡が好きな人じゃないと、働いていて辛いですよね?」
と言われた。ほほう、と思って先をうながす。
「学生時代にちょっと使った以外に、これまで顕微鏡はほとんど見たことがないんですよ。細胞の形がどうとかも全然わからないし、レンズとかの知識もあやしいし。なにより、学生のときは、長時間レンズを覗いていると酔ってきちゃって……あんまり顕微鏡向いてないなあ、って思ったんですよね」
と続ける。
とてもよく言われる話だ。「病理医は顕微鏡で細胞を見て診断を書く仕事」なので、多くの人からすると、「顕微鏡を見て」の部分がキモで、そこに労力と時間を割くべきなのだろうと思えるのだろう。
たしかに、「顕微鏡を見て」の部分は、他の臨床医が基本的にやれない、「病理医オリジナル」の部分なので、キモではある。
しかし、たとえばぼくは、朝の6時半から夜の6時半までの12時間で、顕微鏡を見ている時間はたぶん3~4時間程度しかない。3分の1、もしくは4分の1しか顕微鏡と向き合っていない。
キモだけど労力と時間は割いてないのだ。
ぼくは病理医生活15年、医師免許をとって19年くらいのキャリアを積んでいるから、顕微鏡でプレパラートを見るときの処理速度が早くなっている。だから1日の間でちょっとしか顕微鏡を見なくてよい。……これは理由のひとつだが、ひとつでしかない。
実際には病理医の仕事は、顕微鏡の外にあるのだ。
1.臨床医が細胞を採取したタイミングで、患者にどのようなことが起こっていたのかを、臨床医と同じ知識を用いて考える。いわば「バックグラウンドを理解する」こと。
2.顕微鏡で見えた細胞の形状が、無数の文献のどの細胞と似ているかを照らし合わせる。いわば「教科書や論文と仲良くなる」こと。
3.顕微鏡で見た細胞の様子(所見)を、誰が読んでもわかりやすい日本語で書く。いわば「実況中継をする」こと。
4.顕微鏡で見た細胞の様子(所見)から、病理医として結論(診断)を導く。いわば「名付け親になる」こと。
5.臨床医が患者をみて、血液検査や、CTなどの画像検査を経て、病理診断まで行った結果、患者がどのような病態であるのかを総合的に判断するための手伝いをする。いわば「主治医の参謀である」こと。
6.病院の中の誰よりも多くの患者をみる立場で、病気の珍しさや特殊さに鋭く気づき、その内容を後世の医療者たちに伝えるべく論文を書く。いわば「病院に君臨する学者である」こと。
これらはいずれも顕微鏡というキモに錨(いかり)を下ろしつつ、実際には顕微鏡を覗かずに、教科書や論文、ときには臨床医の頭の中、患者の体の中を覗き込むことで行われる。
よく、病理と料理は語感が似ていると言われるが、「病理医といえば顕微鏡! だから顕微鏡が得意でないとだめ!」というのと、「料理人といえば包丁! だから包丁さばきがうまくないとだめ!」というのは確かに似ているなあと感じる。
包丁さばきがうまいだけで料理人になれる人はたぶんほとんどいないと思う。創作のアイディア、食材の知識、客とのコミュニケーション、そして経営の手腕など、さまざまな場面で総合的に「料理人」としての能力が試される。
それといっしょだ。顕微鏡だけが病理医の資質ではない。所見記載のアイディア、病気の知識、臨床医たちとのコミュニケーション、そして医学論文執筆の手腕。
たしかに顕微鏡というのは他の職業人があまり使わない、特異な道具である。しかし、顕微鏡に一日中向き合っている病理医というのは、一日中おさしみを切っている料理人のようなものだ。それも極めればひとつのプロにはなるだろう、でも、たいてい、ほかにもやることがある。