2022年8月19日金曜日

病理の話(689) 例外がない科学はない

細胞には「良悪」がある。

「悪性」とは放っておくと際限なく増殖して人体に悪影響を与え、最終的に人体を死に至らしめるものをいう。「がん」が有名だろう。

これに対し、「良性」は、放っておいても(命にかかわるほどの)悪さをしない、という意味だ。ぼくらの体を作っている細胞は基本的に良性であるし、たとえば、ふつうのほくろは、見た目が周りと違うので目立つが、放っておいても命にかかわることはないからこれも「良性」である。


ではこの良悪、どうやって見極めるかというと、なかなか複雑で奥が深い。

(細胞の中にある)核の性状がおかしければ、それは悪性である可能性が高いと言えるのだが、「核がおかしければ絶対に悪性だ」と言えないので難しいのである。


若い学生や研修医が顕微鏡を見ている。今回は食道の粘膜をみているようだ。びくんと体が揺れたのでどうしたのかなと思って見ていると、興奮して声をかけてくる。

「せ、せんせい、めちゃくちゃ核がへんな細胞を見つけました! 1個しかないんですけど……これだけおかしければさすがに癌ですよね? 明らかに普通の細胞の何倍も大きくて、形もぐっちゃぐちゃなんですよ!」

ほう、そこまで言うとはよっぽどだな、と思いつつ、ぼくはひそかに、内心、(がんではないアレだろうな)という気持ちで彼らの元に近寄っていく。

はたして。

正常の細胞よりも何倍も核が膨れたその細胞は……「がん細胞としても核が異常すぎる」のであった。これはウイルス感染による変化である。ヘルペスウイルスとか、サイトメガロウイルスといった、一部のウイルスに感染した細胞は、核が異常に膨れることがある。あまり知られていないが、新型コロナウイルスに感染した肺の細胞の核も異常に膨れる場合がある(ただし核に変化が出る頻度は低いので、ウイルス感染の証拠として用いることはできない)。


また、逆に、核も細胞の性状もほとんど正常の細胞とかわらないのに、挙動だけが「がん」というパターンもあり得るので病理診断は難しい。こういうときには、細胞の顔付きで判断してはだめで、細胞の挙動……具体的には「周りの構造物を破壊しているかどうか」をもって、良悪を判定しなければいけない。




で、今日はそういう「病理診断は難しい」という話をして終わってもいいのだけれど、ひとつ、「これがあれば絶対に良性と判定できる基準」があるので、それを皆さんにお教えしよう。

それは、線毛(せんもう)である。



皆さんもご存じだろうか? 気道の細胞の表面にはうっすらと毛が生えていて、タンを外に吐き出す役に立っているということを。

細胞表面に生えて、ものを運んだりする毛を線毛と言うのだが、「線毛を持ったがん細胞」というのは存在しない。科学には何事も例外があるのだけれど、線毛があるがんだけは本当に見つからない。ぜんっぜん経験されない。ある意味ふしぎである。



核がおかしければがん? → いや、核がおかしい良性の細胞もある

細胞質がおかしければがん? → いや、細胞質がおかしい良性の細胞もある

核が普通なら良性? → いや、正常の細胞と見分けが付かない核を持ったがんもある

線毛があれば良性? → はい。



こうなのである! マジで珍しいパターンだと思う。ぼくもかれこれ「病理の話」を689回も書いてきて、つまりは689回以上「病理のこと」を考えてきたが、「線毛があればがんではない」という法則にだけは例外が適用されない。ぶっちゃけ第一級の不思議である。


……と、ここまで書いて、科学というのは「例外がないなんてあり得ない」ものだと知っているので、うん、たぶん、がんばって検索すれば出てくるだろうな、と思った。

PubMedという論文検索サイトで探してみた、すると出てきた。ごくごく珍しい超例外的なパターンで、英文の症例報告が過去に数例(!)ある程度だが、たしかに「線毛を持つがん」と診断された報告が出てくる。


ああ、やっぱりなー。例外がない科学ってないんだよな。「線毛があれば99.9999999%良性である」と言っていいかなと思うんだけど、100%ではないんだ。また科学の科学っぷりを確認してしまった。


でもまあ線毛があったら普通は良性だよ。もっとも、病院の中でも病理医だけは、普通をうたがって万が一を追い求めないとだめな仕事なんだけど。