2022年8月1日月曜日

脳だけが過去をする

同僚がずっとため息をついているのでこちらも沈んだ気持ちになる。「何かつらいことでもあるのか」とたずねたところ、「あっ、ため息ついてましたか」と自身で気づいていなかったらしく、以降1時間くらいはおとなしくなるのだが、その後またため息が復活する。翌日もため息。週が明けてもため息。くせになっているのかもしれない。あるいはガス抜きになっているかもしれないのでそこからはもう放置することにした。今日もぼくは、何度もため息が連続で聞こえてくる環境で少し集中しづらいなあと思いながら、自分の顕微鏡やPCで細胞を見たり原稿を書いたりしている。


若い頃の自分は、どれほどため息をついて暮らしていただろうかと思い出してみる、うん、思い出せない。過去はすべて地続きのままグラデーションを形成して現在につながっているが、10年前にこうだった、という記憶の多くは8年前や6年前に「反芻した記憶」である。何度も思い出すたびに誇張や忘却によって少しずつ調整されていく記憶の中の情景は、おそらく10年前のそれとはまるで違ってしまっている。過去の自分から連綿と続く伝言ゲームは伝達ミスが続いて元の痕跡をまるで残していないのだ。というわけで、ぼくは30代のころため息をついていた記憶がないが、しかしそれは、今のぼくと地続きの限りで思い出せる部分がなんとなくため息をついていない、という極めて脆弱な思い出であって、10年前に正確にタイムマシンで戻ってみればその瞬間ぼくがため息をいっぱいついているかもしれない。そういうタイプの「無自覚」は確実にあると思う。


ところで、軽くタイムマシンという言葉を使ってしまったが、実際には過去というのは存在しないだろうなという感覚はある。脳が五感で収集した世界の情報を「時間軸モデル」にあわせて構築して仮想世界を形成することで、過去・現在・未来の概念がうまれてくるが、それは、YouTubeの再生バーを右左にぎゅいぎゅい動かすように、あたかも現在から一続きの時空がどこかに存在し、タイムマシンのような「機械」を用いることでいつかそこにアクセスできそうと錯覚させるものであるが、しかし実際には、物理現象はいつも「現在」という瞬間にのみ燃えさかっている。ひとつひとつの現象は一つ残らず、すべて漏らさず、燃え尽きてしまう。過去にとある場所に存在した原子の配列は二度と再現不可能。一度消尽したエネルギーは二度と復活しない。したがって過去は存在しない。未来も存在しない。時間が「流れている」のは脳内の仮想空間だけで、現在になにかしら流れているものなどない。時の流れという言い方は便宜上のもので、移動速度や変性速度、化学反応の速度を言い表すために単位として生じた「時刻」を目盛りとして刻んだときに見えてきたものに過ぎない。過去も未来も存在しない、より正確に言えば、過去があるのは脳内の仮想空間だけであって、現実の空間には過去はない。


ところで、コンピュータもまた人間の脳と同じように、時間という本来存在しないものを電脳空間に仮想的に顕現させるはたらきを持っている。隣人の付いたため息はとっくに四散してしまい、現在だれの耳にも肌にも届かない、つまりため息という過去は現在が通り過ぎた瞬間に霧消したのだが、ぼくの脳はまだ彼のついた重めのため息を覚えている、つまりぼくの脳内にある過去には彼のため息がまだ実存している。仮に、ぼくの脳がこれをすっかり忘却したとしても、今こうしてブログに書いて電脳空間に放流してしまうことで、コンピュータは、インターネットは、彼のため息を電脳仮想空間の過去に刻印してしまうのだ。こうしてため息は現在から切り離されても過去に固定させられる。仮想空間の過去からグラデーションを形成してつながる彼の現在にため息は存在しないが、ぼくの脳内と電脳の仮想空間にはいずれも彼のため息が過去として残存する。また隣人がひとつため息をついた、こうしてぼくの脳は過去を肥大させていく。むしろ脳の唯一の仕事は過去を作り上げることなのだろう、それはおそらく未来に向かってスリークォーターで何かを投げるために必要な、利き腕と反対側の腕の牽引なのだ。脳の仕事は時間を作ること、いや、もっと言えば、時間という幻想をやっていくこと。脳だけが過去をする。