2022年8月5日金曜日

あるいは油のしみ込んだ文化焚き付け

肉と魚の割合を考えながら日々をくらしていると、肉と魚の割合を考えるなんてつまんねえ日々だなという感想に多少なりともたどりつく。

べつにいいじゃねぇか、どっちだって、という投げやりな心がかならず鎌首をもたげる。

同様に、読書と運動のバランスを考えている休日、バランスから逃げ出したい気持ちが脳のどこかにかならずこびりついている。

偏りてぇー! 偏っても大丈夫だよって言われてぇー! むしろその偏りが体に悪いんだと教えてくれた人たち全員だまっててくれぇー!

的なことがある。




それにしても医者というのは気づいたら健康や予防の話ばかりしている。ツイッターで医者を多くフォローしていると、清く正しく長くおだやかに暮らそうと思ったら、大量のチェックリストを今日も明日も何度も読み込んでいかないとぜんぜん無理じゃねぇかという気分になる。もちろん医者の言い分もわからないわけではない。先に注意喚起をしておかないといけない。あとからブツブツ文句を言われても困る。しかし……ま、余計なお世話だよな、と感じることも、たまにある。

先日、「経済回そうと思って感染対策を二の次にした人たちによって、感染が激増して商売がなりたたなくなり、結果的に経済が回らなくなっている」という趣旨のツイートをしている医者がいた。これはいわゆる「だから言ったのに」というやつである。

ああ、「だから言ったのに」。

とても嫌いな言葉だ。

現在の解釈を過去に求めること自体は間違っていないし、誰もが当然やることだけれど、「過去を後悔によって意味づけること」を他人に共用/強要することは下品で下世話だなと思う。



現在とは「なるようになってしまう」ものである。目の前で展開するもろもろは、自分ではどうしようもないことが多く、選択肢のどれを選んでも偶然にのみこまれてしまって、本当は何も選べてなんていない。しかし、過去は違う。じつは過去こそ選択可能なものである。通り過ぎた過去を人間はいかようにも解釈できるからだ。あれは成功だったなと思えばそれは成功だし、あれがよくなかったなと考える心が過去を失敗にする。「だから言ったのに」は、他人の過去を勝手に後悔に寄せていくお節介だ。動かせたはずの過去を悪い方に固定するタイプの暴力なのである。



医者はときに「だから言ったのに」で患者を殴ることができる。もちろん大多数の人はそんなことをしない。しかし、ごく一部のだらしない医者がつぶやいた、可燃性の高い言の葉が風に舞い散らかされるように飛び込んで来るのがツイッターだ。タイムラインはいつも乾燥していて、カラカラにひからびた「だから言ったのに」がどこかからか吹き込んできて部屋のすみにたまり、何かの拍子に火が付いて一瞬で燃えて灰になる。

偏らないほうがいいけど人間ときには偏るものだ。

医者の言うとおりにしたいけれどときには守れないこともある。

そういったことをすべて「だから言ったのに」で片付けようとすることは短絡だ。カラッカラに乾いている。もっとしっとりすればいいのになと思う。