トークイベントなどで、「医者はなぜ死を語るときに躊躇するのか」という意味の質問をされることがある。病理学や治療学を語る時には科学に従って朗々と答える医師達が、職務で経験した「死」を語る段になるととたんにキレ味が落ち、ひどく控えめになり、口をつぐむというのだ。
そりゃそうだろう、と思う。
死を語れる人というのは往々にして、死から適切な距離をとることができている人だ。家族や知人など、自分と関わりの深い人の死について考えた末に、だいたいこのあたりに立っていれば死を見つめることができると落ち着いた人だけが、その人なりに死を語る。
では、医者はどうか?
家族でも知人でもない人の死に多く直面している医者は、その経験から、普通の人よりも死について多くを語れるだろうか?
そういうものではない、と思う。
中には、「死は医療においては敗北だから、医者は死を語りたがらないのだろう」と解釈する人もいる。
一理あるかもしれない。しかしずれている。「死は医療にとっては敗北である」というのは医療を勝ち負けで考える思考であるが、ピントはずれである。医療にはわかりやすい成功(寛解)と失敗(増悪)があるように見えるからだろう、しかし、実際の医療はプロ野球のペナントレースよりも試合数が多く、移動日もなくストーブリーグもない。医者にとって医療はプロ野球選手の野球よりも日常にめりこんでいるものであり、勝ち負けで一喜一憂できるほど試合と試合の間隔がひらいていない。
たぶんそういうことではないのだ。医者が死を語ることを躊躇する理由。
おそらく、「死を語れと言われると、今まさに関わっている患者の死を語ることになってしまうから」というのが大きいのではないかと思う。
昨日外来で会った人のことを人前で語るのが下品だから口をつぐむ。
さっき病棟で見かけた人のことを題材にして語ってしまうのが許せないから言葉を濁す。
医者は「死にかけている患者」を担当している。あるいは、今そのときにたまたま死にそうな患者を担当していなくても、「かつて死にかけていた患者のこと」を心のどこかでじくじくと覚えている。
だから「死を語ってください」と言われると、「具体的なひとりの他人の死」を考えることになる。これは非医療者にはあまり経験されないことだ。
非医療者ならば、「家族の死」か、「戦争などがもたらす不特定多数の人びとの死」か、「物語の中にある死」を思い浮かべるだろう。
これらはすべて「医者でなくても語り得る死」である。
トークイベントなどで「医者として死を語れ」と言われる場面では、家族の死も、不特定多数の死も、物語の死も、「医者でなくても語れる」ので、逆にあまり要求されない。
だから医者は自然と、「この場でしゃべれる死……この場で他の人がしゃべれない死……」とサービス精神を出さざるを得ないが、受け持っている患者という「具体的なひとりの他人」の死を語ることはできない。それは下品であり許されない。
たくさんの死を通り過ぎてきた医者なら、他人の死を匿名化し、抽象化して語れる、と思っている人もいるだろう。
医者にとって、すべての死が過去になっているならば、あるいは可能かもしれない。
でも、多くの医者は、今その瞬間に、「死にかけている患者」を担当しているものだ。現在にある死は抽象化しづらい。
やはり、そこにある死そのものは語れないし、語ってはいけない。
もちろん、一流のストーリーテラーなら、具体をぼかしながらも死に肉薄した語りができるのかもしれない。医療を訓練するのをやめて、ナレーションの訓練をはじめれば、いつかは語れるようになるのだろう。それをやるかという話だ。
「守秘義務」。職務上の義務によって、患者とのできごとを守秘するということ。
医者の多くは守秘義務を守るが、より正確に言えば、「守秘権利」を行使している。家族ほど近くなく、国民ほど遠くない、絶妙に刃の切っ先が届く先にいる他者の生老病死を語ることには強いストレスがかかるから、守秘する。自らを守る。それは権利だ。医者が自分の心を守るために行使する権利なのだ。
「お医者さんはなぜ死を語るときにぼかすんだろう」
それは権利だからである。明日も外来や病棟で出会う人に、(昨日、あなたのことを思いながら死を語りました)と心の中で懺悔するタイプの悪夢を見ないための、自分の心を守るための大事な権利。かわりに、誰もが同じように距離をとろうとする家族との思い出、不特定多数の死、そして物語に描かれた死を語れば、その場の義務を通過することができる。物語がなければ医者もまた現実との関係に押しつぶされていたのではないかと思うのだ。