2022年8月30日火曜日

脳だけが旅をする

いろいろと考えることはあるのだが、世のほぼすべての人びとが「いろいろと考えることはある」ので、おかげさまで、みなさんといっしょです。



経験が増すとともに一つの思考に集中できなくなる。あっちもこっちも「懸念事項」として頭の中に引っかけている。ことあるごとに手に取って眺めてまた戻す。パソコンの周りに色とりどりの付箋をはりまくっている。いや、実際には貼ってないけど、貼っているような暮らしをしているということ。毎日目にする付箋は、そこにたくさん貼ってあることそのものが自然になってしまって、かえって目に付かなくなる? いや、そうでもないかな? 気にしてはいるんだよな? モーニングルーティンのように毎日いくつものことを一瞬だけ考えて、すぐに保留して、あるいは仮固定して、宙づりのままにして、その日そのときにだけしなければいけないことに戻る。「気もそぞろ」でこなせるほど、人生の仕事は甘くはない、しかし、ここぞという瞬間に目の前にある仕事に没頭しようとしつつも、ふと意識の一部がドローンになって後方に浮き上がっていく。ぼくはそのドローンに飛び乗る小人になって、「さっきの付箋、どうしたっけな」と、きびすを返したり、でもまた集中しなきゃな、と、少しキョロキョロしたりして、「そんな挙動ではみんなに迷惑をかけるからだめだぞ」と苦言を呈するさらにもう一人のぼく(雲間にいる)によってまた地上の体に再度インストールされる。そういうことをくり返しながら少しずつぼくの外輪郭が定まっていく。振動していた皮膚が徐々に凪になって体の表面に固定されていく。




インターネットによって無数の人びとが発信するようになって、社会は分散し、分断したのだ、みたいなことを言う人がいる。しかし、実際にはグーグルとかフェイスブックとかマイクロソフトとかヤフーとか、一部の企業が「一人勝ち」になっており、本当は分散とは真逆で、じつのところ「集中」している、という意味のことが書いてある本を読んだ。

あまりにたくさん発信者がいすぎて、「裾野」の部分がロングテール(長い尾っぽ)と呼ばれる広さになっているけれど、ほとんどの人は、検索のアルゴリズムによってごく一部の強い企業が用意した情報に群がっている。事実、無数に散らばった個人のブログなんて誰も読んでない。個人のツイッターにいいねは付かない。……わかることはわかる。ここで言う「一部の企業」とはテレビ局も新聞社ではない。オールドメディアは青息吐息だ。それより上位の概念である「検索や情報表示を提供する側」だけが勝っている。コンテンツを作る側はどこもかしこも、グーグルが次にどういうアルゴリズムで記事を上に表示してくれるかによって生きるか死ぬかの綱渡りをくり返している。一見、選択肢が分散しまくったように見える今は、かえってごく少数の強者に権力が集中している。ああ、まあ、そうだよな、と思う。

でも、その一方で、インターネットよりまだかろうじて優秀なはずの人間の脳(本当にそうだろうか?)は、必ずしも集中はしていないなあ、という感想もある。

かかわるべき日常の引っかかりの数が年齢や経験と共に増え、思考のタネがどんどん手に入っている状況で、思考の末端の「個人ブログ」みたいなものがまったく閲覧されなくなるかというと、必ずしもそういう風にはできていないようである。脳はインターネットよりもガラパゴスなのだろうか。「あっちもこっちも、今はどうしているっけな」みたいに、油断するとすぐに気もそぞろになる。「もっとも大事なことだけに集中して、思考の一人勝ちだ!」みたいなことを、どうやらぼくの脳は得意としていない。経済の論理ではないということか。損得の論理ではないということか。脳の使うエネルギーにだって限りがあるし、考え続けるための時間だって無限ではないのに、ぼくはいつも分散型の思考で摩耗している。判断が複数走って互いに肩をぶつけ合うことで、第3コーナーあたりで摩耗している。


旅をしている間は、「旅をしている」から、ほかのことをしなければいけないという圧から解放される、と、かつて嬉野雅道Dの奥さんが言っていた(嬉野さんが本に書いていた)。ぼくは旅をしても、「ほかのこともしなければな」という気持ちから逃げられないので、嬉野さんの奥さんとはちょっと違うのかもしれない。脳が旅だけをすることはない。「ああ、ほかのこともしなければな」と考え続けている自分の脳を愛するほかはない。