2017年4月14日金曜日

病理の話(69) 顕微鏡という宗教体験とか

細胞をみればその病気がわかる、というのはある意味信仰に近い。

正しく言うならば、「細胞を見れば、その病気がどんな細胞からできているかわかる」だ。なんだか循環論法みたいだ。

どんな細胞からできているかを知ることが、患者さんのためになるだろうか?

なる、とも言えるし、ならない、とも言える。「可能性と限界」と意訳できる。



病気がどんな細胞からできているかわかることによるメリットは、たとえば「がん」の診療で顕著である。現代の医学は、「がん」というひと言だけでは治療が決められないほど進化して多彩になった。

細胞がどんな種類か(腺上皮と呼ばれるタイプ? 扁平上皮と呼ばれるタイプ?)、細胞がどんなタンパク質を持っているか(HER2は? SSTR2は?)、細胞の遺伝子にどんな変化が起こっているか(KRASの変異は? EGFRの変異は?)によって、抗がん剤の種類、手術の方式などを細かく変えることができる。オーダーメード治療と呼ばれるやつだ。

CTやMRI、エコーに内視鏡などがどんどん進化しているため、実は細胞をとらなくても、細胞の種類をある程度見極めることはできる。しかし、オーダーメードというのは、「かゆいところに手が届く」ことが必要なのだ。なんとなくざっくり分類するのではなくて、細胞までしっかり見てビシッと分類することこそが求められる。

こういうとき、「病気がどんな細胞からできているかを知れば、患者さんのためになる」と言える。


一方で。


肝細胞癌という病気がある。この病気は、肝臓にできるがんの中でもっとも多いものだが、たとえば2cmくらいのサイズで見つかり、病変のかたちがきれいな球形をしている場合には、

「細胞を採取せずに、ラジオ波で熱を加えて焼いてしまう」

という治療をする。

この場合は、病理診断が入るスキマがない。画像で見てがんだと判定して、焼いてしまうから、生きている細胞を採りに行くタイミングがないからだ。

さらに、統計学的な検証によって、「病理診断をしてもしなくても、患者さんのその後の経過にかわりがない」ことがほぼ示されてしまった。細胞を見ても見なくても治療方針が変わらない。だったら、細胞なんて見なくてよい。

小さくおとなしめの肝細胞癌においては、「病気がどんな細胞からできているかを知っても、患者さんのためにならない」ということがありうる。



医学が科学の中で少々特殊なのは、「真実を明らかにすること」よりも、「患者さんが苦痛から少しでも遠ざけられること」の方が大正義である、という点である。このことを踏まえると、

「あれをやればもっとよくわかるのに」

という検査に医療保険が下りなかったり、

「これを研究すればもっとよくわかるのに」

という研究室に予算が下りなかったりする理由も、少しは理解できる(共感はしないかもしれないが……)。





ところで、「知りたいということ」が「患者さんのために」を下回る場合、「知らなくてもよいだろう」と片付けてしまってよいものなのか?

うーん、ここは難しいんだけど……。

病理医が第一に大切にするべきは「患者さん」なのだが、直接のお付き合いがあり顧客でもある「医療者」も大切にしないといけない。

「患者さんのために」 ≧ 「医療者のために」

くらいの気分でいる。

医療者ってけっこう知りたがりなんだよなあ……。だったら……。

ま、患者さんに迷惑がかからず、社会にも負担を増やさない程度に、丹念に、だけども、知ろうとすることに答えていくのも、立派な業務なのではないか、と思ったりするのである。