2017年4月4日火曜日

病理の話(65) 血の通った病理学なんていう幻想

「血の通った知識を身につけなさい」という言葉を、つい使ってしまう。

本で読んで覚えるだけではなく、現場で使えるようになってはじめて一人前だというニュアンス。しばしば、座学ばかりして実践をおろそかにする人間、あるいは座学すらしていない人間をたしなめる意味で用いる。

「使ってしまう」と書いたのは、この言葉、ちょっと卑怯だよな、と自戒しているからだ。



たとえば今日の研修医カンファでは、

「ぼくは病棟を持ってないからさあ、抗生剤の使い方とかはひたすら本で読むだけなんだよ。でも、長い既往をもつ患者さんがたまたま別の病気にかかったときに、どの抗生剤を選ぶか、みたいなのって、やっぱり本を読んだだけではわかりにくいんだよな。研修医のみなさんがぼくに教えてくれると助かるなあ、ぼくは病理医だからさ、わかるように教えてよ」

と、煽りまくって初期研修医達を苦しめた。もちろん勉強しておかなければいけないことなので、いちおう指導医をしているぼくがこのように言う資格はあるのだろうが、しかし、意地の悪い問いかけだ。

胆管炎の既往がある人に肺炎があるときにどの抗生剤を使うか、腎盂腎炎の治療をしている人に蜂窩織炎が出たらどの抗生剤を使うか、ステロイド服用によって感染リスクがどれだけ上がっているか、腎機能の悪化によって使えなくなる抗生剤はどれか……。

本を読みこめば書いてあるのだが、「読めば書いてあるだろう! 勉強不足だ!」となじってよいほど簡単な質問ではない。感染症専門医は「それを知っていないと医者ではない」くらいの勢いで解説をしてくれるだろう。けれど、覚えなければいけないことは他にもいろいろある。



「血の通った知識」を身につけるためには、知識をつなぐパイプどうしがねじれていてはだめだ。細くても、先が詰まっていてもだめだ。パイプの走行ができるだけ単純になるように、径が太くなるように、知識をうまくつなげる作業をして、はじめてそこに少しどろりとした血液が流れるようになる。

いつも高圧で血液をぐんぐん押し流している人はいいのだ。使用頻度が高いからと、ばんばん頻繁に血液を流している人は、自然と知識同士をつなぐパイプも太くなる。

しかし、そう簡単に「血は通わない」。現場では稀だが重要な症例なんてのはいくらでもある。稀な症例を目にする機会が多い専門医とは違い、研修医はきわめてよくある症例から順番に経験しなければいけないのだ。



救急車がいっぱいくる病院の研修医が言った、「2年間研修してまともに救急対応もできないなんて、どれだけしょぼい初期研修したんですか」と。

よかったね、自分の中に、血が通った分野がひとつできたんだね。

でも君と違う回路に血を流すためにがんばった人もいるんだよな。



「血の通った知識を身につけなさい」という言葉は卑怯である。血液量が少ない時期には、そもそも血を通わせることが難しいからだ。



ところで、「病理学の知識」に血を通わせたがる医者は比較的少ない。付け焼き刃の知識だけで臨床をわたっていくことも可能である。

さて、じゃあ、ぼくがよく言う、「血の通った知識を身につけなさい」は、病理学に対してもあてはめてよいのだろうか。

ほとんどの医者は、病理回路に回す血流なんて、そんなに多くないはずなのだ。

だったら、現場を知れ、血を通わせろというよりも、いつ血液が流れ出してもいいように、パイプを太くし、つながりをシンプルにし、袋小路をなくする作業に努めておいたほうが、よいのではないかなあ。



以上のような理由で、最近は、「血の通った知識を身につけなさい」という言葉を、こと病理学をめぐる場においては、なるべく使わないようにしようかなあ、とも思うのである。つい言っちゃうけど……。