漫画家さんの「ネーム」をみる機会があったのだけど、あれはすごいものだね。
ほんとうにおどろいちゃった。鳥肌が立つ、っていうけどそんな生やさしいものじゃない。皮膚の、表皮と真皮の間が裂けるんじゃないかと思った。全身の薄皮が剥がれて脱皮してしまいそうだった。
構図がすごい。文章だったら何十行もかけて説明しなきゃいけない内容を1コマの中にスッと入れている。語りかけてくるような説得力。
セリフがないのにキャラクタがしゃべっているように見えた。表情一つ、顔の向き一つでここまで表現できるものなのか。
なにより、ぼくが本気で書いたイラストよりも漫画家さんがネームに書いたラフイラストの方が圧倒的に美しいのである。
「そりゃそうだろう」と思われるかもしれないが……。
ぼくはたぶん、絵のどこがどうすごいとかを分析することはできるし、上手な絵とヘタな絵の違いを文章にすることもできるんだけど、文章にできるからといって自分が上手に絵を描けるわけではない。それはもう、居酒屋でくだを巻いている野球好きのおじさんは日頃から推しチームの4番打者に向けて怒声をあびせているけれどバッティングセンターでは100キロのボールにかすりもしないのと一緒だし、三代目JSBのライブを無理矢理みせられた彼氏が「岩ちゃんって実は一番ダンスが下手だよね」と言ってみたいけれど自分は学生時代に流行ったムーンウォークで挫折しているのと一緒だし、カヨコ・アン・パタースンの英語をバカにする人の9割9分がたとえ日本語であっても銀幕に立つことなどないのと一緒である。
解説はできるが実践できないものばかりだ、世の中というのは。
いや、正確には「解説はできるが実践できないものばかりだ」なんて先刻承知であった。でも、あらためて実際に経験すると、びっくりしてしまった。
見事な入れ子構造である。
誰もが自分の得意なものを持っているかというと、世の中はそうそう優しくはできていない。
ぼくを含めた大多数の持たざるものたちが、今日もプロの仕事を当たり前のように消費しているんだけど、たとえば冒頭の「ネーム」のように、「仕事のすごさをいやでも体感させられるような体験」があると、なんだか脱皮した皮がさらに土下座をするのではないかという、圧倒的な何かを覚えて気が遠くなってしまう。
でもまあ、こういうときにぼくができる「最低限のこと」は何かなあって考えると、「すごかったよ……まねできねぇよ」と言い続けることなのだろうなあ、とか、その程度であろうなあ、とか。