2018年6月5日火曜日

病理の話(207)

若い研修医がぼくのデスクにやってきた。

「指導医にいわれて来ましたぁ~」

なるほど大変だな。同情をするのである。

「お疲れ様です。今日はどうなさいましたか」

ぼくはこのように応じる。「外来」の最初のひとこととしては申し分ないだろう?

ドクターはいつだって、患者に「今日はどうなさいました」と話し掛けていると聞く。

ぼくは患者とは会わないが、かわりに臨床医たちと話をする。

道に迷ったような顔をして病理にやってきた研修医にかける言葉といえば、やはり「今日はどうなさいました」しかあるまい。




「ええと……学会のご相談なのですが……実はその……病理でなにかわからないかなと思いまして」

研修医はおずおずと切り出した。

なるほど、研究発表に際し、臨床データだけでは裏付けが不十分と感じて、病理で補強しようと考えたのだろう。

これはとてもよくわかる。

「臨床医学」というのは、高い山を向けて一歩一歩あゆんでいくようなところがある。

頂は遠く、もやがかかり、ときに、どちらを通ればよいのか迷う。

足下に花が咲いている。目を奪われる。横からオオカミが飛び出してきた。脱兎の如く逃げる。

そうやってえっちらおっちらやっている人間からすると、病理医というのは、

「ドローンで一足先に山頂を見てきたようなやつ」に見えるようである。




「ではちょっと病理を検討してみましょう。先生方の仮説を教えてください。どんな症例を集めて、どのような仮説を立て、臨床的にどのように結論したのかを説明してください。そしたら、病理でどのような補強ができるか考えられますからね」

私はそう答える。

頭の中で少しだけ考えている。

ほんとうは、ドローンでさっと飛んで行けるわけじゃなくて、ぼくらも別のルートから山頂を目指しているだけのことなんだけどな。




研修医が頭をかく。

「それが実は……こういう疾患の人を20人くらい集めてきたところまではいいんですけど、特に臨床的に特徴が抽出できたわけじゃないんですよ。だから、病理をちょろっと見ていただいて、何かおもしろい共通点とかがあれば、それがテーマになるかなって思って……」

ぼくは思わずのけぞってしまった。

ま、まだ、研究の方向性すら決まってなかったのかよ。

おまけに、「病理をちょろっと見ていただいて」、だって?

思わずちょろっと失禁してしまうところをぐっとこらえた。




しょうがないので研修医と一緒に、ひとまず10人分のプレパラートをみることにする。

1人につき30枚くらいのプレパラートがある。いくらなんでも、顕微鏡なれしていない研修医と一緒に、300枚のプレパラートを一緒に顕微鏡でみるというのは酷だろう。

脳内でギュンギュンとドローンを飛ばす。

ほんとうはぼくだって歩きたいんだけどしょうがない。

先に山頂をある程度イメージしないと、登山計画だって立てられないのだ。




「じゃ、ちょろっと見ましょうね。まずはプレパラートを棚から出すのを手伝ってください」

プレパラートの準備にちょろっと30分ほどかかった。

「では見ましょう」

ちょろっと1時間ほどみた。

研修医は顕微鏡疲れでちょろっと目がうるんでいるようだった。

ぼくは告げる。

「病理で抽出できそうな特徴はAとBについて。CやDはこの症例だとまず差が出ません。Eは保留ですね。これだけだと正直、どこかに報告できるほどの新しいデータにはなりません。

しかし、このAとBを、臨床画像……たとえばCTやMRIのデータと見比べて、そこに相関があるようならばおもしろいです。昨年論文として出たこのデータを補強することもできますし、ちょっと違う視点で別のデータを出すこともできるでしょう。

ここからは先生のデータ解析次第ですよ」



研修医はちょろっとおじぎをして帰っていった。

ぼくはちょろっと胃が痛くなったけど、さて、あの研修医はここからどうやってあのデータをまとめるのかな、というのが、ちょろっとだけ楽しみになった。