先日、ある研究会で、度肝を抜かれた。
ぼくを含めた多くの病理医達が「使いづらいなあ。」と思っていた、ある免疫染色についての話。
免疫染色というのはいってみれば「まほう」である。
病理医は「まほう」を使いこなす、まほうつかいだ。
一方の臨床医は、総合力で勝負するゆうしゃである。
ゆうしゃは「まほう」を唱えないわけではないが、まほうつかいほどの魔力はない。
……それが普通だ。
けれどその研究会では、ある臨床医が、「まほう」を撃ったのだ。
「このまほう、使えますね。とっても」
ぼくは最初、マユツバ感を隠そうともせずに、彼の話を聞いた。
けれども次第に、口がぽかんと開き、体が前のめりになり……。
最終的には感動して拍手をしていた。同時に、ぼくは自分のアイデンティティを殴られたような気になった。
かんたんに述べる。例え話にしよう。そうだな……。
がん細胞には、「種類」がある。
A型のがん。B型のがん。AB型のがん。O型のがん。てな具合だ。まあ血液型とはまるで違うんだけど、例えとしてはわかりやすいだろう。
臓器ごとにこの分類方法は異なるし、分ける意味があるかどうか(人間にとって役に立つかどうか)も異なる。分ければいいというものでもない。
ただ、胃という臓器においては、この分類が「役に立つ」と考えている。
そこに登場したのがある抗体X。
この抗体Xを用いると、「A型のがん」だけをピックアップできるのではないか、と期待されていた。
……ところが、この抗体はわりとクソだったのだ。
A型だけじゃなくて、B型も、AB型も、同じように染まってしまう。
「なんだよ、A型を見極めるために使いたいのに。使えねぇ抗体だなあ」
病理医は、「なんでもかんでも染まる抗体」を嫌う。
かつてNSE(神経特異的エノラーゼ)という染色があったが、あまりになんでも染まってしまうので、「non-specific(特異性がクソの)エノラーゼ」と揶揄され、今ではまったく使われなくなった。有名な話だ。
抗体Xもこれと一緒だと思っていた。ぼくだけではない、多くの病理医たちが。
あの偉い病理医も。あのすごい病理医も。
ところが、臨床医である彼は、病理医の慣れ親しんだ王道路線の思考を、はずれた。はずれてみせた。
「なぜだ? なぜこの抗体Xは、なんでもかんでも染まるのだ?」
ピュア過ぎるともいえる疑問は、しかし、学問の根底そのものだ。
素直に、標本を何百枚も作って、他の抗体Yや抗体Zなどと組み合わせて、仮説を組み立てていった。
結果をまとめて、彼はいう。
「この抗体はね、A型とかB型とかを分けるために使うんじゃないんだよ。もっと違う使い方があるんだ。なんていうかなあ……。血液型がいったんリセットされて他の血液型に変わるみたいな現象があるんだよ。抗体Xはこの『リセットマーカー』の一つなんだ」
ぼくは懇親会の席で彼に愚痴った。
1年前、ぼくは彼とある同じ仮説を共有した。そこから、ぼくはぼくなりに、多くの推測を立てていたのだ。
いくつかの研究を進め、論文をひとつ投降した。けれど、激しく修正を求められ、まだ掲載に至っていない。
同じ1年という時間の中で、彼の積み立ててきた結果は圧倒的だった。
ぼくはまだまだ立派な病理医ではないのに、固定観念だけはいっぱしの病理医だったから、彼が持ち得た「ピュアな疑問」を持てなかった。
彼はいうのだ。「先生はまだまだ病理学なんだ。ぼくはね、病理学 pathology じゃなくて、生物学 biology をやってみたんだよ。」
ちっきしょう。赤木が頭の中でささやいた。
確かに現時点で俺は彼には勝てない……だが病理学は負けんぞ……。
日本酒を飲みまくり、帰りのタクシーの中で寝てしまった。三井がなにごとかしゃべっていた。