2018年6月7日木曜日

病理の話(208) 学会発表というきっかけ

学会で発表する準備をしている。

ぼくの研究発表はいつも重箱のすみっこだ。

だからいつだって大きな研究にあこがれる。

 ・多数の症例を検討して
 ・統計学を駆使して
 ・今まで見えていなかった「傾向」を明らかにし
 ・新しい診療のありかたを提案し
 ・ときには遺伝子研究とも連携して
 ・医学を作り替えるような

そんな研究が、すばらしいと思う。

けれどぼくの発表は毎回「1例」を扱うものばかり。

珍しかった症例を再検討し、どこが珍しかったのか、どのようにいつもと違ったのか、なぜその違いに意味があるのか、次こういう症例が世界のどこかに現れる可能性があるのか……。

いろいろと考えながら、たった1例を丹念に説明していく。

1例報告には圧倒的な才能というのは必要ないように思う。数学力もさほどいらない。

ただ、丹念さと地道さは求められる。努力は重ねなければいけない。



学会の前日に、自分のプレゼンを見返す。

「これでみんな納得してくれるだろう、およそ自分のできる完璧な仕事をしたなあ」

と、自信まんまんで用意した内容が、学会で出会った他所の人に瞬間的に

「……ここはおかしくないかな?」

とつっこまれることもある。

はっ、と自分の視野が狭窄していたことに気づく。

しょっちゅうある。

発表が終わってからも反省をし、さらに検討を重ねていく。

何が見えていて、何を見落としていたのかを、何度も振り返る。




ひとつのものごとを前にして、「ぼくはこう感じた」からスタートして、その「感じ」を「思い」に消化させる。言葉にできない感情を言葉に変換し、さらに深く「考えて」、進んでいく。

孤独な作業の末に、学会などの場で「人前に出す」。そうすることで、自分の「感じ」から育った「考え」が、妥当だったかどうかをチェックする。

「感じ」が「思い」を経て「考え」になる過程は、よく歪む。隘路にはまる。どこにより明るい抜け道があったかどうか。そもそも「感じ」は気のせいではなかったのだろうか。

さまざまに悩む。




世界中で無数に行われた作業の末に、今ぼくの手元にあるような教科書やガイドラインができあがっている。

みんながんばったんだろうな、と、しみじみとする。

ぼくは論文が好きだ。きちんと査読された論文を読むと人の努力を思う。教科書が好きだ。学術校正の末に校閲を通って製本まで至った成果を尊敬する。しみじみと拍手を送る。