ワールドカップの報道をみるたびに「どうせ日本は勝てないんだ」とつぶやくタイプの大人がいて、彼はサッカーをみることで自分の大脳の深いところに眠りこけていた幼児のような感情を蘇らせ、脚をくねらせたり眉をしかめたり口をとんがらせたりしているのだなあ、それはいいことではないか、サッカーに感謝するがいいさと、ほほえましく思った。
いい大人がガキみたいにねじくれた感情を吐露するシーンは貴重だ。
SNSならまだしも。現実社会で、大人はみんな大人としてやっていく。
このブログ記事が掲載されるころには、サッカー日本代表の戦いはいくつか終わっているだろう。書いている今はまだ一試合もはじまっていないからこんな呑気なことが書ける。実際、世の中には、サッカーの日本代表が勝つ勝たないでまるで今後の仕事内容が変わってしまう人、サッカーの日本代表の成績次第で今後の給料がなくなってしまう人、代表を育成したりトレーナーとして帯同したりチームドクターであったりシェフであったりした人、さらにはサッカー日本代表を目指してチームを鍛え上げていく指導者、サッカーを通じて教育を行う者、サッカーから何かをごくごく吸収する哲学者、サッカーによって酒を飲むおじさんなどがいるわけで、そういう人たちはまだ日本代表の試合が始まっていない今もとてもまじめで真剣だ。そんな人たちをぼうっと眺めながらぼくがこんなにのんきなエッセイを書けてしまうのは、ぼくがしょせん傍観者だからである。
傍観者というのは常に平和で無責任で幸せでなければいけない。
このことは実はとても難しいのである。
口と手と金のいずれかを出したらそれはもう傍観者ではない。口を挟んだ瞬間に責任がつきまとう。手を出すからには何かを握らなければいけない。黙って金を出した時点で関係者である。平和で無責任な傍観者でいたければとにかく何も出してはいけない。出していいものがあるとしたらそれは幸せのオーラであり感動の歓声であり満足のため息である。主流煙としてコンテンツを摂取したあとにほわっと吐き出す副流煙だけが、傍観者が出力を許されている唯一のものなのだ。
あとはふぁぼも出していいと思う。そういうスタンスでTwitterをやるのが一番ひとを傷つけないし自分を守ることができる。ぼくは最近、誰にも怒られなくなった。