2018年6月21日木曜日

病理の話(213) 主治医と病理医の距離

少し昔の話になる。

臨床医がぼくの仕事ぶりを見て、「この病理医はまだ未熟だな」と考えているかどうかは、なんとなくわかる。たいてい、ぼくにとてもいっぱい話しかけてくる。


「粘膜が主に採れた検体だと思うのですが、私の見た感じでは、粘膜よりももっと深部になにかがある可能性を疑っています。もちろんご高名な市原先生でしたら、顕微鏡をみるだけでも十分に気づかれるかとは思うのですが、老婆心ながら、念のため、粘膜より下の方をじっくりとご覧いただきたく存じます」

「腫瘍を疑って生検していますけれども、腫瘍ではなく炎症の可能性が有り得ます。腫瘍だと決め打ちせず、炎症でも有り得るかどうかを重点的にご検討の上でご高診なにとぞよろしくお願い申し上げます」

「好酸球数については後に申請書類を書くときに必要となります。釈迦に説法とは存じますが、ぜひ好酸球数をチェックお願いいただければ幸いでございます」



臨床医から病理医に情報を提供し、あるいは注文をつけることはよくある。

これらのような注文を、「いらぬお節介」ととらえる病理医もいると知った。「顕微鏡のプロにいちいち注文をつけるな。それくらい見て考えるのが我々の仕事だ」みたいに。

でも、まあぼくは、どちらかというと臨床医の「お節介」がありがたいと感じていた。そもそも、ご高名、ご高診、釈迦に説法、みんな皮肉にしか聞こえない。ありがとう、未熟なぼくに注意喚起してくれてありがとう、教えてくれてありがとう。信用しないでいてくれてありがとう。いつか信頼されるような病理医になるよ。言われるがままに注意を払い、必死で診断の細部を詰めた。





ぼくの仕事が多少なりとも信頼されるようになってから、臨床医が依頼書に書くコメントは少し減った。

「あいつなら言わなくてもみてくれる」

「彼は臨床をよく知っている。余計な注文をつけずとも、自分で内視鏡をみて判断を加えてくれる」

そして、ぼくは少し得意になった。でも、そこからまた少し、考え続けていた。




今、ぼくはとにかく臨床医に「なんでもいいから気づいたことを教えてくれ」とお願いするようになっている。

病理診断の依頼書を書く手間がかかるのは申し訳ないが、それでも、依頼書にはなるべくいっぱい書いて欲しい。

思ったことを。感じたことを。ひっかかったことを。些細だが見逃せないようなことを。

病理の依頼書を、「モレスキン」のように使ってほしい、と思っている。

ぼくが未熟かどうかに関係なく。ぼくがわかっているかどうかを問わず。ぼくがムッとするかもしれない、なんて躊躇せず。

彼らの書いてくることばの端々に、彼らの思考が見えてくるからだ。

臨床医が、「俺たちもまた、病理を理解し、病理のできることと苦手なことを知っておこう」と願っているとき、ぼくはその願いを受け止めて背筋をただす。

臨床医と病理医がそれぞれヒントをかき集めないと正しい診断に辿り着かないような病気がある。

臨床医と病理医それぞれがお互い日常的に使っている専門用語のニュアンスを摺り合わせた先に見えてくる科学がある。

患者とコミュニケーションをとるのと同じくらい、臨床医と病理医が濃厚なコミュニケーションを保つ。短時間でもかまわない、無数のシナプスを同時に発火させるような連携をする。

それこそが病理診断学ではないか、と考えている。




禅とか仏教の考え方に、「最初は円からはじまって、だんだん角がついていき、三角形、四角形、五角形と形が複雑になって、次第にまた円に近づく」というものがある。

これは単なる例え話だが、ぼくは、学者というものは「何度も円に戻らなければ成長できない」のではないか、という思いを強めている。

ぼくが今より未熟だったときの臨床医の態度には、すべて理由があった。

あのときに戻って、またいちから何かを組み立て直そうという気持ちがある。

ここからまた少しずつ角が増えていく。そういうやりかたを繰り返す。