2019年2月28日木曜日

いずれヨンデル選書に並びます

「NORTH 北へ ―アパラチアン・トレイルを踏破して見つけた僕の道 」( スコット・ジュレク)


という本が、めちゃくちゃによかった。まあぼくはこういう本が元々好きなのだ。

しかし、Kindleで買ったのは失敗だった。Kindleの仕様に、こんな「ワナ」があるなんて、思いもよらなかった。




ぼくは、探検とか冒険モノの本を読むときに、自分に課していることがある。

それは、「カラー口絵の写真をじっくり見すぎない」ことだ。

世界各国を訪れて人にできないことをするタイプの本では、たいてい、巻頭にカラー写真が載っている。そこには著者自身が写っていたり、著者が訪れた国が載っていたりする。

これらの写真をみていつも思うこと。

本文を読む前に写真をみたときの感想と、本文を読んだ後の写真の印象とはまるで違うということ。

本を買った直後は、口絵を見ても、あまり自分がその写真に感情移入できない。著者にも何の思い入れもない。うまい写真家が撮っていてもだめだ。それは「うまい写真にしか見えない」。

外国の地で笑う子どもの笑顔を見ても、「まあそういう写真を撮ったんだよな」。

きれいな風景写真を見ても、「まあきれいな場所がうまく撮れたんだな」。

ここまでである。

けれども、本を読み終わってから写真を改めて眺めると、その写真が持つ本当の意味みたいなものが、脳髄に向かってぐんぐん近づいてくる。

「著者はあんなに大変なエピソードを経験したあとに、この子に出会ったのか……」。

「極限まで命を削って、もう半日後に自分がどうなっているか予想もつかないまさにそのタイミングで、見た夕日がこれなのか……」。

これが最高にいいのだ。

ぼくは、冒険譚にまつわる写真というのは「物語込み」で見るのが好きだ。

写真をただ見るというのはAIでもできる。

しかし、そこに、過去に自分が経験した記憶、さらには他人が歩んできた歴史などを盛り込んで、「解析」することは脳にしかできない。

ぼくは冒険譚にまつわる写真は脳で読みたい。



だから紙の本で冒険譚を読む時、ぼくは口絵を指先ですっとばしてしまう。

なんとなく、著者の顔くらいはチラ見しておくこともある。本文を読む上でイメージがしやすくなるかもしれない。けれども、そこまでまじめには読まない。文章の力を信じている。

件の本、「北へ」を読み始めたときも、冒頭の口絵はすっ飛ばした。フリック! フリック! あとで読みに戻る!

ところが……。

もっとも物語が佳境にさしかかる、というタイミングで、なんと、「中間カラー」みたいな写真ページが突然はじまった。

ぼくはその写真をまじまじと見てしまった。

これまで楽しく読んできた物語のおかげで、写真の意味が伝わってくるのだ。だから、思わず、一枚一枚、じっくり見てしまった。ここまでの物語が巻き起こした感動が、写真を意味あるものに変えていく。

そして、悲劇は起こった。

そこに掲載されていた写真の、最後の数枚には、本書の「ラストシーン」のネタバレがはっきり写っていた。

ぼくは呆然とした。




この物語が!

事実に基づいた感動的な展開が!

最後、どのようになるかは!

まだわからなくていいはずなのに!!!

なぜここに!!!

その写真を載せるんだ!!!!!




もし本書を紙の本で読んでいたならば、きっとぼくは、いつものように、「中間カラーページ」の存在を「指先の質感で感じて」、さっさと読み飛ばしていたはずなのだ。実は、そういうことは過去にもあったから。ぼくの指はそういう「読み飛ばし」の記憶をきちんと持っているはずだった。

でも、Kindleだったから。

指先にからむ紙質に違いがなかったから。

ぼくは口絵の到来に気づかなかったし、写真をすべて見てしまった。

うおおおおおあああああという声が副鼻腔のあたりに響いた。

ラストシーンの感動は1割ほど減った。1割程度だ。素晴らしい本だったといえる。間違いない。みんなにもおすすめだ。

けれども、ぼくは、10割感動したかったのだ。




Kindle版のバカ野郎。




読み終わってから、ぼくはあらためて、例の感動的な「中間口絵」を見に行こうと思った。

けれども電子版の目次に、「中間口絵」の存在が記載されていない。

目次から飛べない。

そうなるとまた読み直さないと、どこに写真が出てくるかがわからない。

怒りのやりばにこまった。優れた作品に拍手しながら切腹したかった。




指でぱらぱらと読み飛ばせないKindleはクソである。

誰がなんといおうと紙の本が最高だ。

ちきしょう。こういうハプニングは冒険譚の中だけで十分なのだ。

2019年2月27日水曜日

病理の話(298) うさぎカウントキャリアパス

SNSなどで個別に進路相談されたことが今までに80回ほどある。

相談内容をエクセルにまとめているのでわかる。正確には83回だ。



大半は医学生からの相談で、

「これからの時代、病理医になるというのはどうなんでしょう、リスクが高いでしょうか」

「就職はできるでしょうか」

「おすすめの研修先はどこでしょうか」

みたいなのが多い。



すでに病理で研修をしている人からの就職相談も少し来た。

もう病理医になって働いているのだが、別の職場を知りたいという相談も少数ながらみられた。



これらに共通する特徴をあげることができる。

皆さんもちょっと考えてみて欲しい。

10秒くらいでいい。

10秒数えてあげるから。


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なんの話だったかすっかり忘れたがそうそう。

病理の進路相談の「定型パターン」が何か、という話だ。

ぼくが考える答えは……。



「とにかく多くの人に話を聞かないと、自分のベストの選択肢が得られなくて損をするかもしれない、そういうのはいやだなあ」

という考え方だ。これが共通していると思う。




たとえば、「これから病理医になるのってリスク高いですか?」という質問。

これにぼくが「リスクは他科と変わりませんよ」と答えても、その質問者はまた他の人にも相談をする。

というかそもそも、

「周りにいる病理医にはほぼ話を聴き終わったのですが、あなたはどう思いますか」

という質問が爆裂に多い。




これぞSNS時代というかんじがする。

全世界の知性を刹那的に参照して、かけらをひろいあつめて、いいとこどりをして、自分だけの最強の「師匠」を作り上げるというのが今のトレンドなのだ。

古き良き徒弟制度時代は終わりを告げた。

一人二人の尊敬すべき先達に師事して、じっくり磨かれるというキャリアパスはもうありえないのだろう。




ぼくはいつも同じ返事をする。

「いろんな病理医に出会って話を聞くのがいいんですよ。

すると、ぼくが考えるおすすめ手段ってのは2つです。

1つは、病理医がいっぱいいる施設に行って、一人一人と話をすること。

SNSでもいいんですが実際に会ってみるとその個人が発する雰囲気が『自分に似ているか、似ていないか』を掴みやすいんですよね。

だからより自分よりの情報を見極めやすい。

そしてもう1つは、病理医がいっぱい集まる学会に行って、口頭発表者やポスター発表者の中から、自分が気に入った人に手当たり次第話しかけること。

単施設に行くよりも、幅広い全国の病理医と話ができますからね。」



するとだいたいの学生はそのようにする。

たいてい、いい師匠を見つけることができるようだ。




けれどもぼくは最近考える。

ぼくがすすめる「たくさんの病理医がいる施設で話を聞く」 or 「学会でいろんな病理医に話を聞く」だと、聞き漏らしがあるんだよな。

それは、

「少数の病理医しかいない施設、あるいは病理医が1人しかいない施設で働くのをよしとするタイプの病理医に、話を聞けない」ということ。

あるいは、

「学会が嫌いで、あまり発表をしないタイプの病理医に、話を聞けない」ということ。



人前に出ていきたくない、あるいは、自分だけで働いていたい病理医になりたいと思っている人にとっては、ぼくのすすめるやり方は

「なんか違う」

のだろうな、と思う。




……でもそれはもうしょうがないのだ。だいたい質問者だってわかっていると思う。

ぼくに聞けば、ぼくっぽい答えが返ってくるだろう、ということ。

だからいろんな人に少しずつ話を聞くのだ。人それぞれ、病理に対する思い入れも、人生の投影方法も、まるで違うのだから。

2019年2月26日火曜日

角あればキマリ

前々回のタイトルを眺めていて思い出したことで、もしかしたらここでも一度言及したことがあるかもしれないことを書く。



ドラクエの中に登場する、「解毒のための魔法」が「キアリー」という名前なのだが、これの由来が子供心にわからなかった。

ギラはわかる。なんかギラギラしているからだろう。

メラもわかる。メラメラ燃えてそうではないか。

バギは……風で割れた木材のような……?

アバカムはなんか開くんだろうか。パカッと。……いや、ちがうな、「暴く」だ。あばくからアバカムなんだろう。

マホカンタは魔法をカーンと跳ね返すからわかりやすい。

でも、ホイミはわからなかった。「休み」を分解して「イホみ」と読ませ(へんとつくりを分ける)、これを入れ替えてホイミだろうという説が流行ったが、後に、「ホイっと身を助けるの意味です」とエニックスの社員が発言したと聞いた。意外と単純だったがあまり考え付かなかった。

そして、キアリーもわからなかった。高校時代か、大学時代か、友だちとの会話で盛り上がった。

あるとき一人がこういった。

「楽あれば苦あり、毒あればキアリー。そういうことだ。」

ぼくらは皆納得した。そういうことだな。まちがいない。




……どういうことだよ。まちがいなくないよ。

数年後にぼくは突如ツッコんだ。




「楽あれば苦あり」という慣用表現の「楽」を「毒」にするところまではわからなくもない。

しかし、「楽あれば」→「毒あれば」のあと、「苦あり→きあり」は、自然な思考回路からはちょっと出てこない。「キアリー」という魔法用語があるから思い付くだけで、その言葉がない状態のときに「苦ありをもじろう。くあり……くあり……きあり!」は無理がある。

後付けだ。

ほかに理由があるはずだ。

そして先ほど検索したところ、「癒やす=cure=キュア→キア」が由来だとのことだった。





でもぼくは検索してから思ったのだ。

「由来」、とか、「成り立ち」という意味では「毒あればキアリー」は全くダメダメな理論だとは思う。

けれども頭の中に残るのは圧倒的に「毒あればキアリー」のほうだ。





世にある数々の都市伝説。

根拠が薄弱なのに広まっている医療情報の数々。

一見もっともらしい嘘八百。

これらは、いずれも、「毒あればキアリー」だなと思う。

因果が逆なんだけど、なんとなく人を納得させる説得力。

あるいは、もう少し単純にいうと、「語呂の良さ」がある。





ここまで書いてから思った。あれ、キアリーの由来ってなんだっけ?

……そうだ、キュアだ。さっき書いたばかりなのにもう忘れた。

キュアからキア、そしてキアリーの流れの何が覚えにくいのかって、「キュアとキアリーはさほど似ていない」ことに問題がある。

正しくても覚えられないフレーズというのは確かにある。たいていは、語呂が悪く、スジが悪い。

医療者がよくやることだ。ゆめゆめ忘れてはいけない。

2019年2月25日月曜日

病理の話(297) ウイルスという強敵

かぜって何なんだろうな、というのをきちんと説明しようと思うとかなり難しいのだ。

ウイルスって何がしたいんだよ、って話になってしまうからだ。



かぜの原因となるウイルスは1種類ではない。ウイルスが違えば、ウイルスの「もくろみ」もまた異なる。

その上で、とってもざっくりと、かぜの原因ウイルスがやりたいことを考えてみる。



ウイルスがやりたいことは、「増えること」。

ひたすらこれだ。

自分が長生きしたい、とかではない。とにかく子孫を増やしたい。

そんなウイルスはDNAとかRNAのカケラでできている。

DNA? RNA? そもそもなんのこと? という人もいるかもしれないが、DNAというのは「デオキシリボ核酸」という物質名にすぎないので、ま、素材みたいなものだ。

DNAとかRNAとかタンパク質とか脂質とか糖質とか、そういったものが複雑に絡み合って、まるで巨大な都市のように連合してうごめいているのがぼくら人間であるが、ウイルスなんてのは、ぼくらが素材として用いている物質のひとかけらにすぎない。

なのに、いっちょまえに増えたいというのだ。まったく不思議なやつらだ。




レゴ展が開催されているとする。

レゴで、タージマハールとか、シドニーのオペラシアターとか、マーライオンだとか、世界の名所を作り上げる達人がいて、それを見に行ったことがある。すごかった。

で、その会場で、レゴの1個が勝手にうごいて、勝手に増殖していたらだれだってびっくりするだろう。

ウイルスってのはそういうやつなのだ。度肝を抜かれる。





さて、そのウイルスだが、自分で分裂して増えるとか、つがいになって増えることはできない。

生命としてはあまりに貧弱なのだ。なにせDNAとかRNAのカタマリに過ぎないからね。まあいちおうカプシドと呼ばれるタンパク質のカラを持ってはいるのだけれど。ガチャガチャのカプセルの中に、レゴが数個つながって入っているとイメージすればよい。

こんな小さい単位では、自分を増やすことなどできないのだ。そこでウイルスは一計を案じる。

「もっと増えるのがうまいやつらに寄生する」のである。

ここで使われるのが、ぼくら人間の、ノドの粘膜とか、リンパ組織などにある、ぼくらの細胞だ。

ひどいはなしだ。

自分だけでは増えることができない、不完全な生命(?)は、自分をきちんと増やすことができる完全な生命(=細胞)にとりついて、侵入して、中にある「増えるための装置」を勝手に動かして、自分を増やして、また出て行く。

ぬすっと猛々しい。




ウイルスというのは、自分がただ増えたいだけ。人体に悪さをする「つもり」など元々ないのである。まあ脳がない以上「つもり」もくそもないのだが……。

ウイルスは、だまっていれば、いずれ人体で勝手に増えて、勝手に出て行く存在だ。

では、人体に全く害がないかというと……。

細胞の増殖システムを勝手に使われるわけだから、栄養だって食うし、物資だって奪われる。なにより「異物」だ。人体は排除しようとする。

排除するには、「寄生された細胞ごとぶちこわしてしまう」。

残酷だが仕方がない。これが一番シンプルだ。

でも、この排除を行うと、結果的に、ウイルスに感染した細胞が破壊され、失われる。この時点ではじめて、「明確な被害」が人体に及ぶことになる。

ウイルスというぬすっとは、ひとんちに勝手にあがりこんで、台所で、勝手に冷蔵庫をあけ、食材を作って、自分が元気になり、なんなら増えてしまう。

そこで家ごと爆破して町を守ろうとするのが人体のやりかただ。もう少しかしこい方法はなかったのか?

……いや、これが一番かしこかったのだろう。

昔、江戸時代、火事があったら火が燃え広がるのを防ぐために、長屋は次々とぶち壊されたという。

文明開化前とはいえ、立派に文化が成熟していた江戸時代に、人間がよかれと思ってやっていたことを、ウイルスに対抗する人体はやっているわけだ。むしろかしこいとも言える。




で、ここからが重要な話になるのだが、人体は日々、さまざまなウイルスに出会っていると考えられている。

ウイルスは次々と人体に侵入する。

そして、かたっぱしから、「長屋破壊」によって、排除されている。

ウイルスが少量だと、われわれはウイルスが侵入してきたことに気づかないかもしれない。

ノドの粘膜というのはほっぺのうらがわの粘膜と似たようなぬめぬめした構造をしている。つまようじで、ほっぺのうらがわを、傷つけないように、そっとこすってみよう。すると、表面にうっすらと白いものがくっついてくる。

ここには細胞が100個くらいある。ごめん今のはすごい適当な数字だ。でもだいたいそれくらいだと思う。勘で。

細胞が100個剥がれたからといって、人体にはまったく影響がない。

するとウイルスが100個くらい入ってきても、その場で100個の細胞が「自爆」してくれれば、人体には大して被害が及ばないということになるだろう。

そうして、人体は日々、さまざまなウイルスの少量の侵入を許しては、文字通り「人知れず」排除していると考えられる。




そこにあるとき、圧倒的な攻撃力、感染力をもつウイルスがやってくる。100とか200というオーダーではない。数十万とか数百万とかのオーダーで、しかも感染力が強くて、一気に人体で増えるようなやつだ。

これに感染するとさすがに人体は大戦争状態となる。大火事だ。

これが、かぜ。

ウイルスの種類によっては、「はしか」だったり、「風疹」だったり、「インフルエンザ」のように、特別な名前が付けられる。

名前が付けられているやつはたいていヤバい。

人の歴史を遡ってもわかるだろう。「応仁の乱」みたいに名前がついている戦争はとても大規模だ。「○○村の一揆」みたいなのもあったのだろうが、記録には残っていない。程度問題である。そして程度が激しいものには名前がつく。




かぜも麻疹も風疹もインフルエンザも、所詮はレゴブロックのくせに、ずいぶんと人を悩ませる。

かぜには何種類もウイルスがある。インフルエンザウイルスだって一種類ではない。レゴブロックのパターン数は膨大だ。何百種類もある。何千種類もあるとかんがえてもいい。

だから対処はなかなか大変なのだ。レゴブロックに応じて、戦い方を変える人体の身にもなって欲しい。

常に治安維持だ。

火の用心を祈りながら、拍子木をカチカチならして、町内(人体内?)を練り歩く。

火事が起こらないように。火種に気を付けましょう。放火魔が放火する前にとっつかまえましょう……。

人体は激務である。




そこにときおりぼくらも手助けをすることができるのだ。

手伝うしかあるまい。

ワクチンという。

これでぼくらは人体に対して、ちょっとだけ手助けをできる。

まあ、何百種類もあるレゴの、ある一定の色にしか利かない防御手段だけど……。

やらないよりやったほうがはるかにマシ。

いっしょに町内会を守ってくれるんだ。ワクチンは。ワクワクするだろう? 何が?

2019年2月22日金曜日

楽あれば紀あり

浅生鴨ほどの感性を持ち合わせていないので、日頃、さほど珍しいことに遭遇しない。

……今なにげなく書いた一文を自分で読み返して、うんうん、そうだよな、と納得する。

「珍しいことに遭遇するかどうか」というのは、単純な運の問題ではない。

そもそもぼくに感性がなければ、遭遇したエピソードを珍しいと判断することができない、ということに、最近気づいた。




昔から、椎名誠のエッセイなどを好んで読んでいた。

あー大人はいいなあ。作家はいいなあ。

アウトドアができる社会人はいいなあ。

旅をすることでさまざまなハプニングに出会える。

うらやましいなあ。

ぼくも自分でカネを稼いで、いつか、多くの旅に出よう。

そう思った。

けれど、いざ、カネを稼ぎながら旅に出るようになると、旅にさほどおもしろいことは転がっていない。

旅をしたって日常だった。

なんだ、そんなものか、と思った。思ったより「楽しい旅」「ふしぎな旅」「ハプニングに出会う旅」というのはなかった。




最初、ぼくの旅がつまらない理由を、「仕事の旅だからだろう」と考えていた。

けれどもよく考えると、椎名誠だって、浅生鴨だって、いつも仕事で旅をしている。

その点はぼくと変わらない。

だとすると、ぼくがたまたま「珍妙なこと」に出会っていないのだろうか?

運悪く、「平凡な」旅を繰り返してしまっているだけなのだろうか?




いや、違う。

目の前を通り過ぎたできごとを、認識し、解釈する能力の差だ。

ある事象に対する主観がきちんと尖っているかどうか。

ぼくには、出来事を受け止めてふくらませるだけのセンスがなかった。

「起こったこと」を、「珍しいな、ふしぎだなと感じること」からスタートし、描写して、考えて、記載することでようやく、誰もが読んでわかるような「珍しいできごと」がうまれる。

「我思う故に我あり」と言った人がかつていたし、それを変奏した人もいっぱいいたけれど、差し詰め今回の話は、

「我思う故にハプニングあり」である。思わないところにハプニングなどない。







先日、ある会に呼ばれて講演をした。

運営側のスタッフは幾人もいたが、その多くが従来のキャリアパスでは説明できないような複数の肩書きを持っていた。中でも、医師たちの経歴はとても複雑だった。勤務医として活躍しながら企業を立ち上げていたり、訪問介護ステーションの経営をしながら医療広報に携わっていたり、とにかく、多彩で柔軟だった。

おまけに、見た目がシュッとしていて、おしゃれだ。ベンチャー企業の社長をほうふつとさせる。なによりみんなぼくより若かった。名刺にはCEOとかCOOとかCMとかいろいろな略称が書いてあったが、とても覚えきれなかった。

講演はいつも通りつつがなく終わった。そして打ち上げになった。

まずは講演を行ったおしゃれなオフィスでそのままビール片手に乾杯。立食形式で、あまりみたことのない鮮やかなケータリングをつまむ。塩分が少なくてうまい。ぼくはハンカチを持ってきたかどうかが気になった。スーツのポケットをそっと探ると、きちんとハンカチが入っていて安心した。

このままオフィスでだらだらと飲み食いするなんて、あまりない体験だし、おもしろいな、と思った矢先に、時間ですと声がかかった。そうか、オフィスを閉めなければいけないのだろう。すると即座に「次の店の予約があります」と耳打ちされた。そつがない。

20人くらいでお店に移動すると、何も言っていないのに食べ物や飲み物が出てきた。ぱっと見はチェーンの居酒屋なのだが仕込みが行き届いている。出てくる料理がすべてこぢんまりとしていて薄味で上品でうまかった。先付け(のような小物)を食べ終わったところでなぜかお開きとなった。

(今日はお通しみたいな食べ物ばかりだったけどおもしろかったな……)

ぼくは空腹を満たしたのか満たしてないのかわからなかったが満足していた。しかし、宴会はまだ終わらなかった。さらに次があるという。

若者は元気だな。

なんだか大学時代のことを思い出した。

翌日の予定にはある程度余裕もあったし、そのまま次の店に付き合うことにした。ところが次の店になかなか着かない。おまけにこれから電車に乗るという。少し非日常を感じはじめる。

普通、講演会とか研究会とか学会のときには、近場で何軒か飲んで解散する。講演者は(相対的に)年寄りが多いし、講演者の宿泊場所のそばで宴会をやらないと移動も手間も大変だ。それなのに電車に乗ってまで3次会の店に移動するって? おそらく何か思惑があるのだ、ぼくは何やら策を練っていたのであろう運営側の人々を見て微笑んだ。ほいほい後を付いて歩く。こんな遅い時間でも電車に人がいっぱい乗っている。

連れて行かれた先は東京ドームだった。イルミネーションがきれいだ。東京ドームシティの中には飲食店がある。ぼくのような札幌の民にとって、ドーム球場というのは試合がないときにはカーナビの目安くらいにしか思われていないが、東京ドームや福岡ドームなどは周囲も含めてアミューズメントゾーンとなっている。まあここで飲むんだな、きっと夜景のきれいなところでもあるのだろう。

そして目的地がスーパー銭湯だったのでぼくは心から驚いた。たぶん声に出ただろう。

「これからフロってことですか?」

みんな楽しそうにしている。「大丈夫ですよ、スパリゾートですから」。意味はよくわからなかったが大丈夫だと言っているのだから大丈夫だと思うしかない。とにかく流れに乗り遅れるとどうなるかわからない。こういうときはおどおどするとかえって失礼になるとも思った。

スタッフたちと一緒にそれぞれロッカールームに向かい、だだっぴろい風呂に入った。露天風呂もあった。今日はたまたま飲みすぎていなかったから良かったようなものの、もう少し飲んでいたらさすがに断っただろう。けれども東京で突然入らされた風呂はそれなりに気持ちがよかった。

風呂から上がると談話スペースの広さにまた驚いた。地方のスーパー銭湯とは違って若い人が多い。最初から夜通し飲むための場所として一定の認知を得ているのだろう。ビールを飲んで1時間ほど会話して過ごした。周りにはひっきりなしに客が出入りしていた。ぱっと見はリゾートのビーチサイドにある飲食ブース。時刻だけはド深夜だが、人々はなんだかちょっと楽しそうだった。確かにスパリゾートといえばスパリゾートだ。まったく下品ではなかった。ただ決して上品でもない。いい意味で中くらいの品性が、ゆっくりと羽を伸ばすニュアンスを感じた。自宅の延長として使う人も、飲み屋の延長として使う人もいるようだった。東京というところは、自宅以外にいかにリラックスできる場所を見つけるかで人生の質が変わってしまうのかもしれない。くだらないとも思ったが、それ以上に、共感できる自分もいて、我が内心の振り幅にどぎまぎとした。

夜2時を少しまわったところで、参加者のうち2名が居眠りし始めたのを見て、ぼくはホテルに戻ることにした。そろそろ帰ります、というとみんなニコニコと挨拶をしてくれる。まったくお疲れ様だなと思った。懇親会をするにしても体を張りすぎている。講師を連れてスーパー銭湯に連れて行くというのは運営側としてどれほどの覚悟というか手間というか。オフィスキューの衣装を担当する小松おやびんの名言「本末転倒な心意気」が脳内にちらついた。

館内着からスーツに着替え直したが、ぼくを含めて3名しか着替えない。残りは館内着のままだ。このまま朝まで飲み続けるのだろう。たいした若さだ。ぼくは心底感服してしまった。完全に大学生のやり方だ。もっとも、このスパリゾートはそれなりに金がかかる。おそらく一人4000~6000円くらいは取られていたと思うし、ある意味宿泊料金込みなのだろう。その意味では大学生っぽさは全くない。ここで稲妻のようにひらめいたのだが、そもそも「大人が」とか「大学生として」みたいなごくベーシックな年齢区分・業種区分すら、今はとろけてしまっているのだな、ということをぼくは急速に理解した。

東京ドームシティの外気温はちょうど0度くらいだった。札幌の冬と比べたら圧倒的にあたたかいが、それでも、酒と風呂でほてった手や顔の熱が少し冷まされすぎるようで、早くホテルに帰ろうと思いスマホで宿を検索した。宿泊先の飯田橋のホテルまでは歩いて14分。足早に歩きはじめた。

道すがら、このことをツイートするとしたらどうツイートするかな、ということを考えた。でも、なぜか、おもしろくいじれるとは思えなかった。珍しく不思議なことがいっぱい起こったな、と感じていたし、おもしろい一日だったなとも思ったのだが、このできごとをどう書いたら「多くの人が楽しく感じられる」かがわからなかった。

翌日ぼくは飯田橋を出てからいったん別の場所に向かい、一度用を済ませたあとで、もう一度飯田橋に戻ってきて、「紀の善」で抹茶ババロアを食べた。14年ぶりくらいになるその味は全く覚えていなかった。おいしかった。そして、不思議なことに、お茶請けに出てきた薄焼きのおせんべいの味を、ぼくは完全に覚えていて、そこで少し泣きそうになり、前日の出来事が完全に頭の中からふっとんで、こうしてラクーアのことを書いておいてなんだが、実は細かいエピソードをよく思い出せないでいる。ぼくはエッセイストにはなれない。ぼくは「どれが自分にとって一番大事なハプニングなのか」しかわからない。ぼくはあれだけ苦労した講演、あれだけ変なことが起こった懇親会をすべて忘れて、紀の善の薄焼きに涙をにじませていたのだ。

2019年2月21日木曜日

病理の話(296) 患者に二択を求めてはいかんのですがね

世の中には、白黒はっきりさせなければいけない医療と、グレーな部分を大事にしなければいけない治療とがある。

……この話をすると、必ずといっていいほど、

「いやいや、白黒はっきりさせたがるのはよくないでしょ。

むしろ世の中はすべてグラデーションでしょ。

医療ってのはヒューマニズムなんだから(?)、

AかBか、みたいな二択で決められることの方が少ないでしょ。

考え方を柔軟にしなきゃ。」

みたいな絡み方をしてくる、「ファジー最強論」を唱える人が出てくる。

でも、現実には、「白黒はっきりさせなければいけない場面」はすごく多いのだ。




たとえば、この薬を「飲むか飲まないか」。

手術を「するかしないか」。

いわゆる治療の選択肢において、究極は、二択なのだ。

「ぼくはこの薬を、80%飲みます。」というやり方は認められない。

「私は胃の手術を6割までやってもらいます。」ということはありえない。

やるならやる。やらないならやらない。

だから、医療において、特に「診断」においては、最終的にはこの病気が「AなのかBなのか」、あるいは、「AなのかAでないのか」という二択を攻める必要がある。




治療だけじゃないぞ。

ゲスくて現実的な話をしようか。

「がん保険」に入っている場合、自分のかかった病気が「ある種のがん」か「ある種のがんではない」かによって、払われる保険金額は変わってしまうだろう。

「ある種のがんである確率が40%ですので、保険金を40%分払ってください」ということは認められない。

そう、医療だってビジネスだ。

お金の支払いというのは、基本的に、「AなのかBなのか」、あるいは、「AなのかAでないのか」という二択で決まってくるのだ。





ほかにもいろんな例が挙げられるのだけれど、結論を急ごう。

医療において、診断の究極というのは「AかAでないか」にある。

でも実際には生命は、(ご存じのとおり)ファジーだ。

ファジーでグラデーションがかかっていて、あいまいで、誰もが人とは違う物語を持っている。

そんな中で、「Aです」「Bです」と、ビシッと決める作業をする人は、すごくドライに思われる。冷徹に思われる。人でなし。鬼。悪魔。編集者。





医療者も患者も同じ人間同士だ。

だったら、お互いに、グレーなところを大事に抱えて、無理に二択に落とし込もうとせずに、毎回きちんと会話をして、すりあわせたほうが、勘違いが起こらなくていい。不信感もわきにくい。




だから医者はときに答えを濁す。複数の可能性を提示する。確率でものをしゃべる。誠実に。

患者はときおり困る。

「がんなの? がんじゃないの? 結局どっちなの?」

そういうときに、沈着冷静に、割り切って、ビシッと言ってくれる人がいればなあ……。






というタイミングで頼られるのが病理医、という側面がある。

ぼくらは細胞を見て、「がんか、がんじゃないか」を決めるという仕事を(主に)している。

二択を延々と説き続けて、突きつけるのだ。

この二択が「現実に即していない部分がある」なんてことは先刻承知である。

それでも、「もしあえて二択にするならば、どっち?」と、医者も、患者も、尋ねたいときがくる。

そのときに、「ファジーさをすべてわかった上で、こっちだよと踏ん切りをつける」のが、病理医の役目の一つなのかもな、なんてことを思う。

2019年2月20日水曜日

なんだいつものパターンか

同じようなことを考えている人どうしが、似たようなタイミングで似たような風邪を引いたとする。

そういうのを見て、運命がどうしたとか、神の導きだとか、だいそれたことを言いたがる人がいる。

でも、ぼくは、

「だいたい似たようなことを考えている人ってのは

似たような人にあこがれて、

似たような映画を見て、

同じようなものに影響を受けて、

するってえと、しぐさとかも似てきて、

手の洗い方とか、鼻くそを人前でほじるかどうかとか、

そういったところが似てくるので、

粘膜の傷め方も似てくるし、

菌に対する無防備さも似てくるために、

ある種のウイルスに対する弱さも似てしまい、

結果的に同じような風邪をひくんじゃないかなあ」

なあんて、冷めた感想を持っている。




「本の雑誌」を読んでいたら、作家・辻村深月氏が本屋大賞の賞金10万円で本を買っていた。

買った本のラインナップを見て少し驚いた。「ぼくが買いそうな本ばかり」だったからだ。

別に、ぼくが作家並みのセンスを持っていると言いたいわけではない。

そうじゃなくて。

瞬間的に思ったことは、こうだ。

「ぼくと、辻村深月と、何か生き方に共通点があるんだろうな」ってこと。

だから選ぶ本が似てくるんだろう。




ほぼ日か?

一部の本は、ほぼ日もしくはその関係者が好きそうな本だ。

ぼくは毎日、「ほぼ日刊イトイ新聞」を見ている。

辻村さんも毎日見ているのだとしたら、ここにあげられた本の1/4くらいはかぶってくるだろう。



でも、そうだろうか。もっと根源的な類似点がないだろうか。




しばらく考えていた。そしてあっと気づいた。

ドラえもんじゃん。




辻村深月氏は大のドラマニアだということはよく知られている(余談だがこの記事を書いた直後に、ぼくは辻村さんが2019年の映画ドラえもんの脚本を小説化していたことを知った。買った)。

辻村さんは、「本屋大賞の賞金10万円分図書カード」で、真っ先に既刊ドラえもん全巻(「プラス」も「大長編」も含む)を買った。とっくに全巻持っているくせに、自分の子供に新しいてんとう虫コミックスを読ませたい、などという白々しい理由をつけて、だ。

わかる。何冊でも買いたくなるよな。何度でもだ。



ぼくもドラえもんで育った。このブログでは、ドラえもんの話なんて一回もしてこなかったけれど、ぼくの中であまりに当たり前すぎて……というか……日本国民は全員がドラえもんを通り過ぎているはずだと信じきっていて、「他者とは違う前提」としては考えていなかった。

ぼくのはじめてのエッセイ「いち病理医のリアル」を書いた時、病理医のエッセイなのに唐突にドラえもんが出てくることを、ぼく自身は不思議ともなんとも思っていなかったのだが、先日、ある人に、

「あそこでドラえもんってのが『唐突』で、いいですよねえ」

と言われて、はたと気づいた。「ドラえもんは国民の教養のひとつ」だと思っていたけれど……少し……言い過ぎだったか……。





そうかそうか。辻村さん。あなたの選ぶ本にいちいち納得するわけがわかりました。

ドラからはじまった人ならば、読む本くらい似てくるのは当たり前ですよねえ。





普段、カオスがどうとか、未来予測は不可能だとか、そういう科学のほうが好きでいるぼくも、ぼくを作り上げている事由が「ドラえもん」一択であるということに、みじんの疑いもない。

「どんなルートをたどってもかならずセワシくんは生まれてくるのだから。」

ドラ科学の申し子であるぼくは、すこしふしぎ理論の申し子なのである。

2019年2月19日火曜日

病理の話(295) 実録看護学校講義風景

こんにちは。

今年の学生さんも元気ですね。

毎年、この看護学校で講義をしていますが、ぼくが担当する学生さんたちはとてもお元気です。

ものしずかな人も、座っている姿勢がいいですね。声を発せずとも、何というか、「この業界で勉強してみっかな」みたいな、決意のようなものが感じられます。

こちら側、教壇の側に立っていて、気持ちがひきしまります。



さて、ぼくが皆さんにお伝えするのは「病理学」の講義です。

ちょっと講義時間が変則的ですみません。

時間割をみて驚かれた方もいるでしょう。

月に1度しかやりません。そのかわり、1度に「2コマ」やります。

3時間目と4時間目、ぶっ続けで「病理学」。

月に1回、合計3時間も「病理学」。

これをなんと7か月も続けます。

途中、夏休みも挟みますので。全部の講義が終わるのは秋です。

春から秋まで、毎月1度だけ、このメガネのおじさんがやってきて、3時間も「病理学」の話をします。




これはけっこう大変だと思うのです。

1コマ、1時間半の講義ですら、途中で眠くなるでしょう。

それを、2コマも。

同じおじさんが、ぶっ続けで。

ちょっと厳しい。

キツいですね。

ですから、1コマを半分にわけることにします。だいたい40分ごとに休憩を入れましょう。

講義時間90分すべてを使う気は無いです。そうすれば多少はガマンできるでしょう。




毎月1回しかやらない授業です。

すると、前回やった内容なんて、誰も覚えていられません。忘れてしまいます。

ですから、ぼくの病理学は、毎月、「読み切りマンガ」みたいな感じでやります。

基本的に、前の月にやった内容は忘れて頂いて結構です。




というか、そもそも、この講義でやる内容は、覚えなくても大丈夫です。

実は、「病理学」というのは、看護師の国家試験にはほぼ出てきません。

また、看護師になってから、病理学の教科書を読み直す機会もまずないです。

きれいごとを言うと、「病理の教科書を読み返してもいい」のですが……。

現場で働いている看護師さんの中で、「病理学」を日々意識している人なんて、まずいません。そのことはよくわかっています。

だったらきれいごとはやめましょう。

病理学は、看護師になったあなた方は、「思い出さない」学問です。

はっきりそう申し上げます。

ですから、肩の力を抜いて、講義を聴いてください。



「そもそも話を聴かなくてもいいのでは」と思った方もいるでしょう。

それもそうです。

でも、みなさんは、「これは聴いておかないとまずいぞ」という、ケアの総論だとか、処置の仕方だとか、内科学とか、生化学の講義であっても、たまに居眠りをするでしょう。

「聴くべきだ」とか、「聴かなくていい」みたいな概念は、勉強においては、あまり意味をなしません。

どちらかというと、あなたが「聴きたい」かどうかが問題なのです。





国家試験にも出ない。現場でも役に立たない。

講師がたまにしか来ない。休憩ばかり挟む。

覚えなくてもいいという。

そんな、病理学を、みなさんは何のために学ぶのか。




病理学とは「やまいのことわり」と書きます。つまり病理学ってのは、やまいを学ぶのだろうな、ということはおわかりでしょう。

皆さんは、これから看護師になるまでの間、多くの「やまい」を勉強します。実は病理学だけではなくて、多くの授業で、切り口を変えながら、何度も何度も勉強します。



「やまい」の勉強というのはですね……。

例えるならば、動物の名前を一つずつ覚えていくようなものです。



ゾウ……大きい……鼻が長い……やさしそう。

キリン……背が高い……首が長い……やさしそう。

トラ……黄色い……ええと、怖そう。

シマウマ……しましま……やさしそう。




まあこんなことを、みなさんは、病気だとか、治療だとか、ケアというジャンルで、いっぱい覚えていきます。

喘息……発作……wheeze……ステロイド吸入の指導方法……。

長期臥床……褥瘡……体位交換……ポータブル超音波検査……。

がん……浸潤……転移……早期緩和ケア……病診連携……ソーシャルワーカー……高額医療費補助制度……。

いっぱいあります。ほんとにいっぱい。

はっきり言います。

無理です。

全部なんてとても覚えられません。

ぼくは今、「先生」として皆さんの前に立っていますが、偉そうにしていても、結局のところ、「やまい」については全く暗記できていません。というかこんなの覚えきれないです。皆さんよりちょっと先に生まれて、ちょっと先に生きてみて、いろいろ試したぼくが言うんです。本当です。

でも、皆さんはそれを勉強して国家試験を受けて、将来、看護師として知識を使わなければいけない。

どうしたらいいだろう?




ぼくは小さい頃、「トミカ」をみれば、車の名前を全部当てられたそうです。小さい子どもは、たまにそういうことをします。人間、ごく小さいときには、自分の興味あるものだけは、なんかいろいろ、覚えることができる場合があります。

けれども、今、「トミカ」を見ても、あーSUVだなあーとか、これはスポーツカーかな、くらいしか、わかりません。完璧に忘れてしまいました。

大人は覚えられません。

それはもう圧倒的に忘れていく。

というか、忘れる以前に、頭に入らない。




じゃあ、そんなぼくやあなた方……大人……が、これからどうやって、莫大な量の知識を頭に入れていくかというと……。

「コツ」があるのです。





動物全部を個別に覚えるのではなくて、

・草食動物

・肉食動物

・大きな動物

・小さな動物

・こわそうな動物

・やさしそうな動物

みたいに、分類の仕方を覚えておきます。とっかかりを増やすんです。

車であれば、SUVと、スポーツカーと、セダンと、工事用車両と、緊急車両と……みたいに、特徴に応じて分けておけば、とりあえず、ぱっと見た車の「おおまかな種類」を言い当てることができます。

それで十分です。

細かな車の名前なんてのは、今の時代、検索すれば十分。




病理学というのは、膨大な数ある「やまい」を、ぼくらがどのように「分類」したり、「まとめて扱っ」たりするかを考える学問です。

病理学を学ぶと、その後の「やまい」のお勉強が、ぐっとラクになります。

国家試験を受ける頃には、みなさんは、「病理学という前提を使って覚えた、具体的な知識」が、頭の中にたくさん入っています。

ですから、国家試験に病理の話はほとんど出てきませんが、病理学は皆さんの脳をそっとサポートする存在として、遠い空の向こうから、敬礼をして、あなた方を優しく見守っているのです。無茶しやがって……。





ということで、病理学の講義は、基本的に、暗記をしなくていいです。

どちらかというと、考え方を学んでいただきたい。

もちろん、テストも、暗記が必要ない形式にします。具体的に言いますと、事前に調べて、資料を持ち込んでよいテストにするのです。

だからみなさんは、存分に、「緩んで」ください。

できれば、楽しんで。

先ほど、トミカの話のときに、「人間、ごく小さいときには、自分の興味あるものだけは、なんかいろいろ、覚えることができる場合があります。」と言いました。

だったら皆さんには、「病理学」に興味を持ってもらえばいいかな、と思います。まあ皆さんは「ごく小さいとき」ではないので、そううまくはいかないかもしれませんが。





では、初回の病理学講義を始めます。ノートを用意していた方、ごめんなさい。ノートは取らなくていいです。取って欲しいときには、こちらから言います。

それでも取りたい人は、どうぞ。それがあなたの「調整方法」ならば、存分にやってください。今のは、ジャイアントキリングというマンガからパクったセリフです。




初回の講義テーマですが、実はまだ決めていません。

毎年、話すことを変えているのです。春から秋のどこかでは必ず話す話題ですが、順番はその年ごとに、てきとうに決めています。

今年も、てきとうに決めます……。そうですね、いつものように、皆さんに手を上げてもらって、決めましょう。次の中から選んでください。それぞれ、感染症の病理、循環器の病理、がんの病理を考える上で、キーとなるエピソードを含んでいます。

テーマは次の3つです。(ホワイトボードに書く)



 1.ぼくが性病になったときの話

 2.マンガ「はたらく細胞」の舞台になっている「町」を真剣に考える話

 3.聖闘士星矢の話



では手を上げてください。まず、「1.」

あー、そうだろうね。わかるわー。

でははじめましょう。あっ、もう、30分も経ってしまった。あと10分で休憩に入ります。

2019年2月18日月曜日

ハクジョーウ大魔王

ネットとの距離感というのは、「薄情な自分と、薄情な他人との距離感」である。

駆け寄っていって肩を抱くことはできない。

噛みしめて堪えた感情は伝わらない。

とにかく情を通わせるには不十分なのだ。この場所は。

けれども知は通うのである。わりと十分に。




たとえば病理診断を遠隔でやるとか、臨床カンファレンスをオンラインでやると言うと、すぐに

「ネットでは画像の細かい対比は難しいのではないでしょうか」

とか、

「電話越しだと議論もなかなか深まりませんよ」

などというのだが、実際ここまでいろいろやってきて、わかった。知に関してはネット越しで十分だ。むしろ、気軽に、回数多く、距離の制約を受けずに何度もやりとりできるネット越しのほうが、知を交わす上では優秀かもしれない。

「会わなければ広がらない知」というのはそう多くないだろうな、と感じている。




つまり「会わなければいけない」のは、ぼくにとっては、もっぱら「情」の部分なのである。

「薄い情」では困るような相手と、きちんとやりとりをしようと思うと、モニタ越し、インカム越しでは、心許ないなと、ぼくは今も思い続けている。




そして最近ふと考え付いた言葉遊びがあるのだが、

知の一部は情によってもたらされている可能性がある。

ほら、「情報」っていうじゃないか。

インフォメーションには情の側面があるのだ。




となると……「薄情なままでもやりとりできる知の一部分」を交換するときにはネットはとても役に立つが、「情の厚さがものをいうような知」をやりとりしようと思うと、実際に会って話したほうがいいのではないか、という話になって。




病理学は薄情な分野だよねと思われているふしがあって。




うーん。




人に会って話すということを、今後もやらなきゃいかんのだろうなあ。

薄情なぼくは出不精でもあるのだ。これだけ出張しておいて何をいってやがる、と、薄情な君たちは笑うことだろう。

2019年2月15日金曜日

病理の話(294) 分類は変わるが所見は変わらない

このブログはblogger.comで作っている。Bloggerは、天下のGoogleが提供するブログサービスである。

「大丈夫、Googleのブログだよ。」

世の中で一番安定感があるブログだよな、と思っていた。



ところが今日、この記事を書こうかなと思って、管理人専用ページを開くと、一番上に何やら英語で注意書きが出てくるではないか。

おっどうした……まさかの……サービス終了か……?

ぞくっとして中身を読むと、

「”Google+”がサービス終了する関係で、リンクとかの配置が少し変わるよ」

という通告であった。ほっとした。




けれども同時に思った。まったく他人事ではないからだ。

Google+を使っていた人たちは大変だろうな。

今まで記事を載せたりコミュニケーションをしていた媒体そのものが消滅したら、そこから先、どう取り返せばいいのだろう。ちょっと検討がつかない。

ほかにもSNSはいろいろあるでしょう、というわけにもいかないだろう。

いったんGoogle+用にまとめたものは、なかなかほかのブログやSNSにそのまま移行できるものではない。

Google+を使って商売をし、アクセス数ほかの統計解析をしていた人などは、手に入れたデータの多くが無駄になるかもしれない。




実は、病理診断にもそういうことがまれにある。

病理診断というのは、人体から取ってきた臓器の中に含まれる病気を評価・判断する仕事だが、この「判断」の基準が、ときおり変わることがあるのだ。

一例をあげよう。胃がんの場合。

手術で胃をとってきて、病理診断をすると、病理報告書にはだいたい以下のような言葉が書かれる。今回はあえて、専門的な言葉を使って箇条書きにする。

「tub1>tub2, pType 0-IIa+IIc, pT1b2(SM2, 1850 μm), INFb, Ly0, V1b(EVG,SM), pN1(2/20), pDM0, pPM0, pRM0, M0, Stage IB.」

なんのこっちゃと思われるかもしれないがこのまま先に進む。一般的に病理報告書に書かれている文言そのままである。

実は、今から10年ちょっと前には、書き方が違っていた。

まったく同じ病変を、このように書いていた。

「tub1>tub2, Type 0 IIa+IIc, SM2(1850 μm), int, infβ, ly0, v2(EVG,SM), pN2(2/20), pDM(-), pPM(-), pRM(-), M0, Stage II.」

細かく、しかし、ほとんどが変わっている。簡単に説明する。

太字: 書き方が変わったもの。

太字+下線=概念がかわったもの。

太字+下線+斜体=患者に対する影響予測まで完全に変わってしまったもの。


くりかえすが、この2つの表記は、「まったく同じ病変に対する表記」である。ぼくが頭の中で適当に考えた胃の病変を、10年前と今、それぞれの基準、それぞれの決まり事にあわせて書いただけ。

たった10年でこんなに書き方が変わる。そして、書き方はまだしも……

「今後患者がどうなるかという予測」までも変わっている。

一番さいごのStage(ステージ)というところを見て欲しい。

10年前は、この病変は、Stage II。

今だと、Stage I(B)。

今のほうが、「患者はより助かりやすい」という判断になっている。ま、実際にこの10年で、医学が進歩した影響もなくはないのだが。



医学というのは、過去のデータを元に、多くの患者に何が起こったかを知識として時代に蓄積することで、その精度を右肩上がりに上げていく。

年代が進む毎に、観測するための機器がよくなっていくから、昔の患者よりも最近の患者のほうがより細かく評価できる。だからある程度、検査の測定項目は変わる。これは仕方がないことだ。

けれども、それを差し引いても、「昔、人の目できちんと見ることができたデータ」そのものは、今だって同様に評価できるべきだ。

ぼくらは、20年前や30年前のデータを、今に役立てることが、本来は、できる。

でも病理診断の記載方法が10年でこんなに変わってしまうと、困る。

書き方がちょっと変わっただけなら、対応表を書けば、なんとかなる。

けれども、概念まで変わってしまうと、比べようがない。

その都度、倉庫の奥からプレパラートを引っ張り出してきて、「昔診断した人の診断を、やりなおす」ことをしないと、正しいデータがとれない。

こちとら、そんな時間はないのだ(たまにやるけど)。





いちいちプレパラートを見直さなくてもよいように。

「時代と共に、書き方や、分類の仕方が変わる」ことをよくわかっている病理医は、ある対処をする。

患者を分類にあてはめて終わるのではなく、きちんと、まるで小説やエッセイを書くかのような気分で、患者に何が起こっているのかを「記述」する。

そうすれば、箇条書きの仕方が変わったからといってあわてなくてもよくなる。




先ほどの例でいうと、こうだ。

「tub1>tub2, pType 0-IIa+IIc, pT1b2(SM2, 1850 μm), INFb, Ly0, V1b(EVG,SM), pN1(2/20), pDM0, pPM0, pRM0, M0, Stage IB.」

と書いた後に、文章で説明をつける。

「不整な腺管構造や癒合管腔構造を形成する、高分化型~中分化型管状腺癌です。」

 →tub1>tub2に対応

「肉眼的に、病変の辺縁部で境界明瞭な浅い隆起を形成し、内部には陥凹局面を伴います。」

 →pType 0-IIa+IIcに対応

「癌は粘膜筋板を破壊して粘膜下層に浸潤しており、表層から1850 μmまで達しています。」

 →pT1b2(SM2, 1850 μm)に対応

「癌周囲には中等量の線維性間質を伴います。」

 →現在はこの項目を箇条書きに入れていない。昔は「int」に対応していた。

「浸潤様式は中間型で、不整な浸潤境界を示しますがskipするような浸潤像はありません。」

 →INFbに対応

「○番リンパ節に1個、○番リンパ節に1個、合計2個のリンパ節転移を認めます。」

 →現在はpN1に対応。かつては「○番」の扱いが違ったため、pN2に対応していた。




箇条書きはニュアンスを取りこぼす。

「分類」というワクが時代によって変わると、ワクに押し込められた微細な変化は後世に伝わらなくなる。

だから、ぼくらは、枠外のニュアンスを残すために、昔も今も共通のフォーマットである「日本語」を大事にする。




「Google+がなくなるんですって? 大変でしたね」と知人に聞いてみたらこう答えた。

「いやあ同じモノをFBページにも書いてましたし、最近はnoteに移してましたから問題ないです。やり方は少し変わりますけど。こっちの言いたいことが変わるわけじゃないんで(笑)」

なるほどそっすね、と腑に落ちるのだ。

2019年2月14日木曜日

まけんきけんま

人の手を借りないといい仕事なんてできない。

そして人の手を借りようと思ったら、誰か他の人の手になる覚悟が要る。



借りっぱなしってことはまずないからだ。



ぼくが仮に、愛されふわもこボディのトイプードルみたいな人間(犬?)だったら、話は別かもしれない。一生愛されっぱなしで生きていける可能性も高まるだろう。

けれども残念ながら現実は汚い中年homo sapiensである。ふわでもなければもこでもない。愛されながら生きることを期待してはいけない。

すると……。

誰かに手を貸してくれ! と叫んで回ってもだめだろう。

誰かに手を貸すぜ! と叫んで回ってなんぼなのである。




フリーライターになって一人でがんばっている人が、どこかのチームに所属して、「よかった、所属できた、やっぱり一人では限界がある」なんて言っているのを見た。わかるなーその気持ち。

人間は社会的な文脈の中ではじめて霊長類最強になれる。

腕力や体力、ハングリーさだけなら、ゴリラはおろかチンパンジーにも勝てない。

つまり「ひとりでできないもん」こそが人間の真の姿である。

本能だって「ひとりはいやだもん」になっていないとおかしい。

それなのに、ああ、自分でも経験があるのだが、幾度となく、「ここはひとりでできるもん」とか、「ここは俺にまかせて先にいくもん」みたいな気持ちになることがあるのだ。そうでなければ「フリーランス」とか「独立独歩の精神」などという概念はこの世に存在していないはずだ。ふしぎである。

なぜときおり、わざわざ、ひとりになりたがるのだ、ぼくらは。

感情のバグではないのか?

群れるほうが本能のはず。

徒党を組むほうが合理的なはず。

なのに、ぼくらは、思春期にも、壮年期にも、枯れかけた今のぼくみたいな時期にも、ときおり、

「ひとりでやるもん」

みたいな衝動に突き動かされる。これがバグでなくてなんだというのだ。




……じっくり、じっくり、考えてみた。

その結果だから正しいだろうと押しつける気は無いけれど、今、ひとつ、答えが浮かんだ。




ぼくらは、何も持たずに「徒党」に合流することを良しとしない、そんな本能を持っているのかもしれない。

「徒党」に入れてもらえば、確かに、守ってもらえる。

何も持っていなくても、互助精神で、救ってくれる。

けれどもそういうのを「よしとしない」気持ちが、本能に組み込まれているのではないか。

その結果、各人が、ちょっとずつでもいいから何かを「持ち寄る」ことで、自然と「徒党」の全体的な価値が高まっていく。

「誰かのために、自分がやるんだ」という……

「いつか俺が手を借りるときのために、ふだんは俺が手を貸すぜ」という……

そういう気持ちになるように、本能にプログラムされているのかもしれない。




そして、誰かに手を貸すための「手」を鍛えるには、ある程度、孤独である必要があるのかもな。

そんなことを思った。手遊びというのは基本的に孤独を癒やすためのものである。不思議な符合だ。あるいは、孤独は、技術を磨いてくれる研磨剤のようなものなのかもしれない。

2019年2月13日水曜日

病理の話(293) かかりつけ病理医

友人が少しずつ開業している。

昔と今とで、「開業医」という仕事のイメージはだいぶ変わった。

「大病院ほどの治療はできない、ただ近いだけの、年を取った医者がひとりでやってる、ふるぼけた、あてになるのかよくわからない医院」

こういうイメージは古い。




開業医……「かかりつけ医」の強力な武器をご存じだろうか。

それは、「患者と長年付き合ってきて、その患者のことをずっと診てきたという歴史」である。

救急病院でいつも問題となるのが、突然運ばれてきた患者がそれまで飲んでいた薬や、持病の有無などがすぐにはわからないということ。

おくすり手帳をいつも持ち歩いて交通事故に遭うわけではないし、iPhoneを持っているからといってスマホに健康情報すべてを入力している人も少ない。

救急車で運ばれてきた人は圧倒的に情報が足りない状態で生命維持をスタートされる。

これは本当に大変なことなのだ。




医療者であれば、いつも、「この患者は背景にどんなものを抱えているのか」を強く気にして診療をする。そして、かかりつけ医とは、この、「患者の背景」を一番よく把握できる医者である。

ずっと通ってくる患者と長年にわたって会話をするということ。

患者と医者との対話は、どんな教科書よりも雄弁に、その患者自身を語ってくれる。



「一病息災」ということばがある。

血圧が高いとか、血糖が高いとか、そういう「とっかかり」によってひとつの病院に長くかかり、医者と気ごころを通じ合わせることで、何かほかの病気になったときに早めに見つけてもらったり、小さな体調不良にいち早く気づいたりすることができて、結果的に健康でいられる時間が長く続く、という意味だ。



患者の人生に寄り添いながら、いつか現れるかもしれない数々の病気に最初に対処する存在。

なかなかにして粋な商売なのである。






ぼくがやっている病理医という仕事は、患者の背景を把握しきれない。

患者と直接会話できないからだ。臨床医からも、患者のすべてのデータを伝えてもらえることはほとんどない。

細胞だけをみて判断していると思われがちな仕事だし、実際、細胞はとても雄弁で、多くのことを語ってくれる。

でも、病理診断の際に、「患者がそれまでに何をしてきたか」という情報は、ものすごく大事だ。

患者が持っている持病。患者のライフスタイル。患者が今何に苦しんでいるか。

これらが伝わってはじめて、病理診断というのはその精度を高める。

だからぼくらはいつも電子カルテを孤独にたぐる。

そこに書かれている様々な情報から、主治医が患者に対してどのような思いを抱いたのか、患者は何を伝えようとしているのかを読み取る。

わかりにくいときは直接電話をする。





「A先生、この人何か薬飲んでますか。肝臓が何かいつもとちょっと違うかんじなんですよ」

「B先生、この方の主訴って何なんですか。腹痛ですか。それとも便通の異常?」

「C先生、スメアご覧になりましたか。骨髄だけだとわかりにくいんですけれど。」

「D先生」

「E先生」





ひとつの病院に勤め、いろんな臨床医に電話をし続けて、12年くらい経った。まだ12年。もう12年。どっちかな。

こないだふと思った。

ぼくは……病理医は……臨床医の「かかりつけ」みたいな存在だなあ。

A先生だったらどういうときに病理に検体を出してくるかがだいたいわかる。

B先生はどういう病気に興味があり、どういう異常を細かく見つけているかが予想できる。

C先生はぼくに何を求めているかをだいたい知っている。

……かかりつけ病理医か。

悪くないな。

2019年2月12日火曜日

いずれカイリキーになる

ヤンデルくんは、ゴーリキーの「どん底」に出てくる巡礼者みたいだな。

そう言われた。なんだそれは、と思った。

ちなみに市原君ではなくヤンデルくんという呼び名で言われた。

彼に出会ったタイミングについては、それぞれご推測いただきたい。SNSの縁で出会った相手である。なおオフ会ではない。彼が誰であるかは、きっとここを読む人のだれも思い付かないと思う。たぶん予想しても当たらない。少なくともぼくが今までどこかで言及したことはない。



ロシア文学、あっいや、戯曲か。ゴーリキーなんて読んだこともない。

なんとなくほめられの気配を感じたので、ぼくはゴーリキーを読むことにした。岩波文庫で翻訳版が手に入る。

……ロシア文学。まいったな。カラマーゾフの兄弟で血反吐はいたからな。

カラ(略称)のときは「ここだけ話がわかったぜ、おもしろかったぜ」というポイントが一箇所あり、それは裁判のシーンだったんだけど、読書メーターの感想文などをざっとみるとたいていの人が「裁判のシーンはおもしろかった。」と書いていて、あー、みんな同じなんだなあ、フフッ、となった。




というわけでゴーリキーを読んだのだが、まず人名が厳しい。なんでロシア人はこんなにわかりづらい名前を使うのだ。でも、藤田と後藤と後藤田と前田と藤岡と岡田が出てくるような日本の物語だって、読みづらさはたいしてかわらない。お互い様ということか。まあそんな日本の作品は知らないのだけれど。





「どん底」は救いようのない物語だった。貧民窟に希望は全く見あたらない。大きなイベントも起きないし、まさかという出会いもない。思った通りの汚い思惑。たいていそうだろうと予想できるやるせない展開。いかにもロシア文学といった……いやまあロシア文学なんてぜんぜん知らないんだけれど……ふんいきだった。

まさにタイトル通りの「どん底」という物語の中に、途中で、「巡礼者」がさっそうと登場する。

ひょうひょうと現れるおじいさんのイメージ。

スカッとジャパンに出てきて、いやな人をうまいこと言ってやりこめちゃうタイプかな。

自由がどうとかいう。幸せがどうとかいう。

貧民窟の奥底で。

それを聞いて人々はちょっとだけ変わる……ならばよかったのだが、実際には人々のなんたるかは全く変わらない。

ただ、歌だけが残る。

歌いたい人の数がちょっとだけ増える。けれども不幸の総和はまったく減っていない。

2,3人死ぬ。

ひとりは人生を諦めていたのに、巡礼者のじいさんが何やらうまいことを言うモノだから、「そうなのだったら、私はもう少し生きたい」と、生にしがみつく。そしてすぐ死んでしまう。

不幸は減っていないし、不幸が目に見えるようになり、あるいは逆に不幸が一瞬見えなくなったりする。




実を言うと、「どん底」は、巡礼者が登場する部分については妙に読みやすかった。

巡礼者が何かいうたびに、読んでいるぼくも、そうだそうだ、希望を持て! と言いたくなる。

ところが巡礼者はクライマックスを待たずにどこかに消えてしまう。

全く無責任で、自分勝手。勝手に自由の話をして、何も変えないまま、いつしかいなくなる。



読者はやはり、巡礼者の部分が一番印象に残るようだ。

読者メーターをいろいろ見てみた。読者は「何が何やらわからん」と書き、あるいは、一部わかった場所の感想を書いて、深い……とか言う。

巡礼者はあちこちで言及されていた。

みんな、巡礼者のところだけ読んでいるかのようだった。





この構図はまるで医療と医者の関係のようだなと、ぼくは思った。

医療がどれだけ発展していても、人は死ぬし、死を巡る議論は終わることがない。

医療者は介入して何事かを言ったりやったりする。すると、患者やその家族は、ひそめた眉を少しだけゆるめて、勝手に希望を見いだしたり、明日を探したりする。

そして肝心のタイミングで医療者たちはまた次の巡礼へと旅立つ。

残された人々は、医療者達がやってくるより前の頃に比べて、なぜか、歌詞のめちゃくちゃな、歌を歌うことがある。






ぼくはこの「巡礼者」になぞらえられた。

決して「ほめられ」ではなかったなと思う。

けれども、ぼくはまあ、なんというか、とても、すごい、「いやーよく見ているなあ。」と、感心し、大いに微笑みながら、深く深く、歌うように、思索の沼に落ち込んでいった。

2019年2月8日金曜日

病理の話(292) 耳やべー超やべーよ

何が不思議って目とか耳とか鼻とかがちゃんと進化したのが不思議だよ。

たいていの人は「目ってやべーな」って言うけど、俺にいわせりゃ、「耳」だって相当やべーから。

耳の中とかマジやべーからな。ホネめっちゃあるから。知ってる? アブミ骨、キヌタ骨、ツチ骨。俺なんかさあ、もはや形も機能もぜんぜん覚えてないけど、名前があまりにアレなんで、40を超えてもいまだに19歳で習った解剖学の用語がいまだに新鮮に脳の中にばっちり残ってる。この3つのホネはマジでやべー。

ぐぐってみるとわかるけど、「何、その精巧なプラモwww」みたいなホネ。
3つが継ぎ合わさって、鼓膜の振動を増幅する「だけ」のために配置されてるの。

マジやべーから。

ぐぐってみって。

すげーから。俺普通に笑っちゃうもの。

「音」を「振動」に変換させるっていう、まあ言ってみりゃ「物理」じゃん。「物理」を生存戦略に用いてるわけよ。俺ら人間サマはさ。

何とちくるってんだって思うよ。普通。




こないだ聞いたよ。

パフュームだったかももクロだったか忘れたっけど。

なんかすげーボーカリストってさ、高い音を出すときによ、唇がブブブンって震えるように歌うんだと。

音は振動だからさ。

うまいことバイオンだかなんだかを響かせてきれいに歌うと、共鳴だか救命だか知らねぇけど、唇がブルルンって振動するんだと。それが目安なんだと。

で、そういうことができない状態で、のどをカスッカスに枯らして無理やり高い音を出すのは、プロの歌手としては、だめなんだとさ。ほんとかどうかは知らねぇよ。ラジオで聞いたんだ。

……で、な。考えてみて。

そのカスッカスの高い音あるじゃん。いかにもさ。紙をすったみたいな。シーみたいな感じで出す、高い音。カラオケで出ない音を無理やり出そうとしたときにキーってなるときの、カッスカスの音あるじゃん。

あれ……普通に俺らの耳で感知できるっての……すごくね?

だってシーとかキーとかだよ?

唇すら震えさせられないレベルよ?

どんだけ繊細な振動かって話よ?

それを、俺らの耳はきちんと振動に変換して、脳神経で電気信号として読み取るってんだからさ。

どういうことなの、って話よ。




そしたら調べてみるとさ。

アブミとキヌタとツチってホネはさ。

全部、「てこの原理」みたいな形をしてるわけよ。あと、面積的にも増幅してるってうわさだけど詳しいことはわかんねぇよ。

で、これらの骨が、鼓膜から順番に並んでるわけ。ツチ、キヌタ、アブミの順番で。

音がさ。

鼓膜を震わせるとさ。

その振動が、まるで糸電話の糸を伝わるみたいに、ツチキヌタアブミの中を伝わって、最後には内耳の蝸牛って言われるカタツムリみてーな構造の中に伝わるんだけどさ。

このツチキヌタアブミを通り過ぎる間にさ。てこの原理と面積のなんちゃらでさ。

音が20倍くらいに増幅されるっていうんだよ。

何言ってんだかもうびっくりだよ。おじさんはびっくり。

何アンプかましてんだよ。

人体だぞ。

おぎゃーって生まれてきただけの人体だぞ。

いつの間にそんなちっせぇ増幅器を、こんな脳にクソ近いところに平気で配置してんだ、って話だよ。





……脳神経に絡む話をするとだいたいしゃべり方が雑になるんだよ。

なんでって?

笑っちゃうくらい精巧だからだよ。そりゃ正常がこれだけ複雑だったらさ、病気もさぞかし複雑だろうなーってさ、なんとなくわかるもんな。

2019年2月7日木曜日

第3弦はwww大三元wwwwwww

クラシック音楽のことは本当によくわからないのだけれども、伝え聞く話によれば、多くの曲に「主題」があるという。

たとえばソナタ形式で構成された音楽の場合、第一主題が提示され、やや転じた状態で第二主題が提示され、その後展開して(主題を元にしてさまざまな遊びが巻き起こり)、最後にまた主題がジャンジャン再現されて終わる、みたいな形式をとるのだという。

勉強してないので半分くらいしかわからないが「元となるメロディ」が曲の最中に何度もアレンジされながら登場するというのは、よくわかる。



もはやピンと来た人もいそうなので早めにネタばらしをすると、最近のぼくのブログ記事にはどう見ても「主題」がある気がする。

同じテーマ、同じモチーフ、たったひとつの信じる何か、を巡って、あたかもプロレスの最初にレスラーが距離を測りながらぐるぐる回るように、視点を変えながら、表現を変えながら、しかし同じモノを見て書いている。

たいていの人はそうなのかもしれないが、ぼくもやはり、同じようなことを切り口を変えながら、何度も何度も書き続けている。



それでは、ぼくの書いているものの「主題」はなんだろうか?




第一主題は「病理の話」……と言いたいところだが、たぶん、そうではない。

ぼくがしょっちゅう用いる「メロディ」がそのまま「病理」というわけではないような気がする。

そのメロディを奏でるために頻用する「コード」が病理学である、というか……。

あるいは、ギターでいうと第5弦とか第6弦の部分が「病理の話」に相当する、というか……。




クラシックつって話を始めてるのに突然ギターの話になったのはカンベンして欲しい。

けれどやはりクラシックはよくわからないので、自分の興味があるギターミュージックの例えになってしまう。





ぼくにとって「病理の話」というのは語りたいことの本丸でもあるのだが、同時に、病理と関係ない話をしているときもメロディもしくはコードの一部を支えている「音源の根元でずっと響いている何か」である気がする。





クラシックでも歌謡曲でも何でもいいんだけど、そこには大量の音楽理論があって、人々の間で愛され続けてきた曲にはしっかりとした理論が(作り手が知っているかはともかく)あって、その理論というのはなんとなく、「ものを語るとき」にも当てはまるのではないかな……という、予測。

ぼくのこの「世界を貫通するような法則がある気がする」という信念もまた、ギターの第1弦や第2弦あたりにしっかりと張ってある気がするのだ。

2019年2月6日水曜日

病理の話(291) 病理医を目指すあなたへの五箇条

病理診断をして暮らしていくコツみたいなものを、覚え書きのように書く。


1.顕微鏡のライトはおさえめにすること。

 正直に言うと、この仕事は、一日中顕微鏡を覗いている仕事……ではない。けっこうほかにも見るモノはあるのだ。本だったり、パソコンだったり、臓器の肉眼像だったり。それでも、やはり、顕微鏡をみる時間というのはそれなりに長い。で、これはぼくの主観でしかないのだけれど、はじめて顕微鏡をみる学生とか、病理をはじめて間もない研修医が顕微鏡をみるときに、横から声をかけて、接眼レンズを覗かせてもらうと、とにかく、「明るい」。「明るすぎる」。なんとなく本能的に、人は顕微鏡をみるときに、明るめの視野にしてしまうらしい。そこまで明るくなくても十分に細胞の詳細はみられる。明るすぎると細かな輪郭とか色調の差がわかりにくくなる。何より、長時間顕微鏡をみようと思ったら、そんなに明るいと眼精疲労がやばいことになるぞ。暗くしろ暗くしろ。


2.イスと顕微鏡の高さを死ぬほどきっちり合わせること。

 これはもう老婆心というか長老心くらいの気持ちで強めにお伝えしたい。ここをおこたると、5年で首が死ぬ。肩も死ぬ。おもしろいくらいに死ぬ。だから絶対に顕微鏡とイスの高さだけは最初にきちんと合わせておいた方がいい。前傾姿勢になりすぎていないかどうか。丁寧に合わせた方がいい。


3.イスは背もたれで選ぶな。

 2.とちょっと関連するのだけれど、病理医にとってイスは「もたれて使うもの」ではない。少し試してみればすぐわかるのだが、背もたれに体をあずけながら顕微鏡をみるというのは不可能だ。だから、顕微鏡をみるときに大事なのは、「細かく適切に高さの調節ができること」と、「座面の前のほうに浅く座って顕微鏡に向き直ったとき、自分の骨盤がしっかり支えられていること」である。ありがちなミスとしては「オフィスチェアやオットマン型のチェアで高いのを選ぶ」というやつで、これはもう笑えない、実際、病理医にも実際にハーマンミラーなどの高級イスを買って「これで完璧だ」と思っている人がいっぱいいる。しかし実際に座って見るとわかるけれど、背もたれと座面の関係がいかに完璧であっても軽度前傾で顕微鏡をみる姿勢のときにはほとんど関係がない。顕微鏡をみるときに体に疲れがこないイスというのは、後傾姿勢ではなく前傾姿勢を支えてくれるイス、具体的には「受験生用のイス」が最適解である。もっとも、顕微鏡をあまり見ずにパソコンに向かってバカスカ検索したり論文を書いたりツイッターをしたりするぼくのようなタイプは高級オフィスチェアに座ってもそれなりにうれしさがこみ上げる……けれどそこまでする気がないので普通にコクヨの安いオフィスチェアを使っている。


4.パソコンのうち一番よく使うほうの光量を下げろ。ただし顕微鏡写真をとる方のパソコンはデフォルトの明るさにしておけ。

 マニアックでしょ。でも大事。まず自分が一番よく使うPCは、顕微鏡同様に光量を抑えめにしておいたほうが目にやさしい。そして、ここが究極マニアックなのだが、「臨床医のためにプレパラート画像の写真を撮る」ということを病理医はよくやる。顕微鏡で適切な細胞像を探してそこを写真に撮るわけだが、このとき、「パソコンの光量を落としすぎていると、画像本来の明るさを低めに見積もってしまい、結果的に臨床医が画像を渡された際に『なんか妙に明るいな』ということになる」。……まあ相当繊細な臨床医以外はほとんど気づかないレベルの差なのだけれどぼくはこのミスをよくやらかす。病理医としてクオリティの高い写真を撮りたいと思ったら、自分のPCの光量を低めに設定していることを計算してカラーバランスを調整しないといけない。


5.敬語を丁寧に使え。

 顕微鏡とかパソコンとかイスの話ばっかりしたので、最後に何か一つ実践的なことを書いておくと、ぼくが考えるもっとも重要な病理医スキルは敬語をうまく使うことである。病理医のクライアントは「医療者」である。病院の中ではあらゆる医療者がそれぞれ異なる専門性を持ち寄って協力し合い、チームとして医療を行うわけだが、「病理」というのはその中でも専門性が強すぎるため、病理の話をされた他分野の人たちは基本的に「論理で殴られているような気持ちになる」。このことはとても大事だ。こちらが職能を発揮すると相手は全くひと言も反論できなくなってしまう。この不均衡性を是正するにはとにかく相手に対する敬意を忘れてはいけないし、礼を尽くすために「敬語」は最低限である。親しき仲にも礼儀ありというが逆である、医療界では、礼儀ある中に親しさが生まれてくるものだ。




こんなところだろう、あとは、ちゃんと勉強し続けよう。これは病理医に限った話ではない。……というかどれもこれも病理医に限った話ではないのだが。

2019年2月5日火曜日

ローファイから滑って行った先のジェレミーザッカーがまたすごくいい

メジャーレーベルからのリリースをやめて自主製作・自主販売でけっこうな量のアルバムを売ったLOSTAGEの一番新しいアルバム in dreams は、その販売過程を全く知らない状態で聴いても40歳男性の心にしみじみと染み渡っていた。



ぼくは音楽がよくわからない。聞いて心地よいものを誰もがそうするように「あれ好きだったよ」というだけの存在。

音楽雑誌を買わないしライブにもめったにいかない。クラブミュージックに興味があってもクラブにいかなければシーンはわからない。ハウスもテクノも知らないままに過ごした青年時代。Hip hopのことだって、ずっと悪友と母に感謝する音楽ジャンルだと思っていた(申し訳ない)。



そんなぼくは今でも、自分のルーツとなっているLOSTAGEやZAZEN BOYS, bloodthirsty butchersなどを好んで聴く。2日に1回くらいのペースでこれらのどれかを必ず聴いている。

おそらく世の中ではそこまで有名ではないけれど、全部がメジャー(もしくは元メジャー)レーベル所属だし、ちょっとバンドミュージックが好きならこれらのバンドを知らないということはありえない程度には有名なバンドたちだ。

けれども。20年前、ぼくの周りには、彼らの音楽で一緒に盛り上がってくれる人はほとんどいなかった。

ライブハウスに行けばいくらでもいた。フェスにもいっぱいいた。

けれどもぼくはライブハウスには行かなかった。ずっと、iPodのイヤホンとだけ好きなバンドの話をしていた。まあぼくはもっぱら聴く方だったけれど、それは確かに会話だった。






最近こんな話ばかりしている。同じ素材を何度もループさせている。アレンジを少しずつ変えながら何度も何度も。

ああSNSというのは不思議なものだ。ぼくは同じ話を何度もするタイプの人間になっているな。年を取ったのかもしれないが、瞬間的に消費して痕跡も残さないSNSの影響もあるとは思うぞ。

でもおやじの居酒屋トークといっしょか。言ってみれば居酒屋だって、small network serviceではあったんだ。

さておき。





あの曲良かったよねというと、こちらがたずねてもいないのに、「この曲もぼくはいいと思ったんだ。」と絶妙なおしつけでぼくの前に新しい曲を出してくれる人たちがいる。これはSNSのおかげだろう。外出しないぼくの周りに、そういうプチお節介な奴らがいる。ありがたいことだ。

新しい音楽たち。

決してぼくから能動的に求めたわけでも、だまってクマゲラのヒナみたいに受動的に口の中に押し込まれたわけでもない。それは一番いい形でぼくの前に現れた。

「ぼくの歩んできた歴史が、ぼくの前に無意識に偏りを産んでいて、坂道を作っていて、その勾配にそって、ぼくは自然と滑り降りて、その曲にたどり着くことになる。望むところではある。」

これを中動態というらしい。

何度も書いたね。






ぼくの周りにはぼくの音楽を好きな人が数万倍くらい増えた……いやこれはおかしいな……ゼロを何倍しても数万にはならない。

SNSありがとう。今ぼくは、LOSTAGEを中心とした膨大な音楽の海の中にいる。チルアウト「させられ」ている。聴か「されて」いる……。

違うな、受動態の表現ではうまく伝えられない。やはり中動態でなければだめだ。






「聴かさる」。

北海道弁。標準語を使う南の地方人たちには意味がわからないだろう。やさしいぼくは、説明をする。北海道弁には中動態表現があるのだ。

「自分で積極的に聴こうと思っていたわけではないんだが、なんだか勝手に向こうから聴こえてきて、でもそれが別にすごく不快かというとそうではなくて、どちらかというとそのまま身を任せていてもいいかなという気になって、まあすごい積極的にライブストリーミングをクリックしようと思ってたわけではないんだけれども、なんだか自分ではない何かの力によって自分のスマホの上で指が勝手に開いて、Spotifyが起動するのをぼくは許容してみていた、そしたらいつのまにか音楽が耳元で鳴っていて、それは別に悪い気分ではなかったよ」

というのが「聴かさる」の1単語内に含まれている。どうだすごいだろう?





サンプリング。スクラッチ。反復したよれたビート。チルアウト。

「ローファイ・ヒップホップ」という言葉をシャープのDJが教えてくれた。まあそれはぼくに向けて発した言葉ではなかったからつまりは「聴かさった」のだけれども、中動態的にぼくの中ではねた。

何もわからない音楽の、自分の目についた断片を、SNSという雑なサンプラーで、何度も何度もリピートして、次々とストックしてはミックスして聴き続けていたぼくの前に、lo-fi hip hopが現れて、その音楽性というのはよくわからないけれど、なんだかやっていることはSNS時代のぼくにぴったりだなあ、とか、そういうことを思った。ぼくは今、毎日lo-fi hip hopをかけ流しにして働いている。

2019年2月4日月曜日

病理の話(290) 今の時代に師匠を持つということ

「グラム染色道場」という本を買って読んだのだがとてもおもしろかった。
( https://www.amazon.co.jp/dp/4784948104/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_TuKsCbVAM4755 )

著者の山本剛さんは細菌検査の達人で、一度講演を聴いたが切れ味がとんでもないことになっていて、尊敬してやまない。

同名のブログもある。http://gram-stain-id.cocolog-nifty.com/

一般人が読んでもなんのこっちゃ全くワカラナイと思う。申し訳ない。ぼくも半分くらいしかわからない。それほど感染症、細菌検査の世界は奥深い。

難しいけれどもこの内容は多くの医師に知っていてほしい。臨床検査技師にとっても、陳腐な言葉で恐縮だが「必読」と思う。

ぼくはこのグラム染色道場と、もうひとつ、「栃木県の総合内科医のブログ」 http://tyabu7973.hatenablog.com/ を、ときおり研修医に紹介している。どちらもレベルが高いが定期的にチェックすると楽しい。



ただ、今日の話、本題はここではない。




「読んだらいいと思うよ」というホームページとか雑誌なんてのは、今の時代、ほんとに無数にある。無限と言っていいだろう。

かつてぼくがまだ学生だったころ、

「NEJM(超有名医学雑誌)のケーススタディを読んでない医学生はモグリ」

と言われたことがあり、あわてて読み始めた。当時すでにケーススタディはケースレポートの形に変更になっていたので、教えてくれた人が言うのとは少しニュアンスの違う記事になっていたが、確かにとても勉強にはなった。

ただ、現代において、かつてのように、誰かからおすすめされたブログとか書籍を全部読むというのは無理だ。

「最低限これだけは……」という、質が高く読みやすく手に入りやすいリソースが、とんでもない数ある。「最低限。最低限」と言いながら、ほとんど人体の限界に挑むような量の雑誌や書籍、ブログを読まなければいけない。ドコが「最低限」やねん、とツッコむことになる。

タイムラインに流れるすべてのおすすめブログを片っ端から読んでいると、それだけで一日が終わる。




今の時代は、”師匠”が多すぎる。

これについては何度か書いているかもしれないけれど、たとえていうならば、J-popが多様化してミリオンヒットがなくなったのと、現象としては似ている。

20年前にはミスチルやビーズ、サザンを知らない人はほとんどいなかった。ぼくはバンドミュージックが好きだったがどちらかというとマイナーレーベルとかインディーズの少しオルタナ方面の曲が好きだったから、あまり積極的に売れ筋の曲を聴いてはいなかったと思うけれど、それでもGLOBEだってELTだって浜崎あゆみだって一通りの曲を覚えている。

かつてはそれくらい「多様性がなかった」。

けど今はどうだ。

米津玄師がバカ売れしてるって言っても、一曲も知らない人はそんじょそこらにいるだろう。

欅坂の曲をクラスのみんなが口ずさめるかどうか。

世界の人々と容易につながれるようになり、自分の手の届く範囲がとても広くなった結果、「誰もがアクセスしやすい情報」の意味がかわった。

それまでは、「テレビで盛んにやっている曲」だけが、みんな簡単に手にできる情報だったのだけれど、今は、テレビやラジオでまったく取り上げていなくても、スマホとSNSだけでどんな情報へもアクセスできる。

メジャーもマイナーも関係なく「誰もがアクセスできる」ようになった。

その結果、ミリオン級ヒット曲というのがなくなってしまった。




実は医学知識を集める場合もまったく同じ事が言える。

非常に専門性の高い高度の知識を集めようと思うと、そもそも発信できる人が限られているので、昔も今も一流の医学雑誌や優れた教科書、コクラン・ライブラリー級のメタアナリシス型サイトを読む以外の方法はあまりない。

でも、初級から中級……医学生や初期研修医、後期研修医あたりが、基礎的で汎用的な情報を学ぼうと思うと、かつてよりも参照できるブログやネット記事の数が圧倒的に多いので、昔よりも勉強の仕方がずっと多様だ。

だから、ネットで「おすすめです」と言われているものを逐一チェックしていくと、自分の処理能力を確実に超えてしまう。

先輩医療者がおすすめする本やネット情報は、たいてい、おすすめされているだけあって、本当に「いい」。

でも「いい」ものが多すぎるから結局全部中途半端になってしまって、めんどくさくなる。





このような内容の相談をされたことがある。

「今って、読まなきゃいけないってされる本が多すぎませんか?」

「この著者を知らなきゃモグリとか言われたんですけど、ほんとうですか?」

「最低限これだけはやれってのが人それぞれ違うんですけど、どうしたらいいですか?」

ぼくはこれにこう答えるようにしている。

「もうしょうがないから、とりあえず、基準を決めるといいよ。ある本とかブログとかを誰かにすすめられたら、ぼくの場合は、その『すすめてくれた人』の人柄で決めてる。その人がいい人なら読んでみる。その人が尊敬できるキャリアを持っているとか、生き様に対して賛成できる人だとか、まあなんか自分とは合いそうだなって場合には、おすすめしてくれた本やブログも読むとたいてい当たる」




というわけで冒頭のグラム染色道場などは「ぼくのおすすめ」ですので、ぼくの読んでいる本とか言っていることに多少なりとも親和性がありそうな人にはおすすめです。




病理の話じゃないように思えるでしょう。

でもこれ病理の話なんだよ。ほんとに。病理ってのは本と戦う部門なので。「ぼくの場合」。

2019年2月1日金曜日

岐阜県郡上市の大日ヶ岳に源を発し三重県を経て揖斐川と合流し伊勢湾に注ぐ木曽川水系の一級河川

ラジオは「ながら」で楽しめるから便利なのだが、残念ながら、仕事中にラジオ的なものを聴いてしまうと、仕事がひどく進まなくなる。

たまに仕事が進むこともあるのだが、そういうときは逆に、ラジオの内容がまったく思い出せない。

「文脈を聴きながら文脈で働く」というのはなかなか大変だ。どっちかしかできない。

思ったより「ながら」は難しい。

どういう「ながら」なら、ぼくは達成できるだろう、というのをいろいろ考えた。




トークは厳しい。

講義系も厳しい。

やっぱ音楽だよなー。

わりとすぐ考え付いた。

そして、しばらく「ながら音楽」の暮らしにいた。





たとえば外国語の歌詞の曲なんてのは、脳をそちらに持っていかれにくい。ぼくにとっては最高の環境音楽だ。「ながら」に抵抗がない。

オルタナ、プログレ、エモコアあたりは、日本語の歌であっても歌詞が突飛で、そこまで脳に直接意味が飛び込んでこない分、作業時に後ろで流しているととてもマッチした。

いつしか、「ながら」で「片手間」に、「適当」に、あまり「本腰を入れず」、「労力を使わず」に、一日中ずっと聴いている音楽が増え、そういう曲が「歌詞が情念を手渡してくるような曲」よりも少しだけ好きになった。





そしてつい先日。




いつもBGMとして流しているアルバムの「元のCD」を久々に引っ張り出してきて、歌詞カードを見たり、ライナーを読んだりして、ぼくは、あっ、と思った。

その音楽はとても丁寧に作られていた。

歌詞も重厚で、世界観が1曲目から11曲目に向けて慎重に練り上げられており、ジャケットも美しく……。

つまりは、このアルバムのためだけに58分ちょっとの時間を捧げることで、バンドが持っているクオリティのすべてを存分に味わえるよう、高度な計算と感性の末に生み出された作品だった。

けどぼくはそのアルバムを「雰囲気」だけで、おそらく作り手の意図の1/5も伝わっていない状態で、何度も何度も聴いて。

「歌詞を書けないけど、裏でかかっていたら一緒に歌えるくらい、耳が歌詞を覚えている(けど脳は覚えていない)」

みたいな状態になり。

まあぶっちゃけた話、そのアルバムが、「人生で一番好きなアルバムのひとつ」なのである。

これはどういうことだろう、と思った。





「ながら」で「片手間」に、「適当」に、あまり「本腰を入れず」、「労力を使わず」に、一日中ずっと聴いている音楽。

この最後がカンジンなのか。

片足しかツッコんでいない。

全力を傾けていない。

誠実な向き合い方をしていない。

そうであっても、「ずっと聴いている」ということ、ただひとつで、いつしか世界観に惚れ込んでしまう、そんなことがあるんだ。





毎日のように聴いている音楽たちを、仕事を終えてから、家で、順番に、じっくりと聴き直している。

しょっちゅう聴いているのに新鮮だ。

愛着がある分、世界に入っていきやすい。

歌詞でこんなことを歌っていたのか、というのも、するする入ってくる。





……あるいはこれは「教育」のひとつの理想型なのではないか、ということをおぼろげに思った。