2019年2月7日木曜日

第3弦はwww大三元wwwwwww

クラシック音楽のことは本当によくわからないのだけれども、伝え聞く話によれば、多くの曲に「主題」があるという。

たとえばソナタ形式で構成された音楽の場合、第一主題が提示され、やや転じた状態で第二主題が提示され、その後展開して(主題を元にしてさまざまな遊びが巻き起こり)、最後にまた主題がジャンジャン再現されて終わる、みたいな形式をとるのだという。

勉強してないので半分くらいしかわからないが「元となるメロディ」が曲の最中に何度もアレンジされながら登場するというのは、よくわかる。



もはやピンと来た人もいそうなので早めにネタばらしをすると、最近のぼくのブログ記事にはどう見ても「主題」がある気がする。

同じテーマ、同じモチーフ、たったひとつの信じる何か、を巡って、あたかもプロレスの最初にレスラーが距離を測りながらぐるぐる回るように、視点を変えながら、表現を変えながら、しかし同じモノを見て書いている。

たいていの人はそうなのかもしれないが、ぼくもやはり、同じようなことを切り口を変えながら、何度も何度も書き続けている。



それでは、ぼくの書いているものの「主題」はなんだろうか?




第一主題は「病理の話」……と言いたいところだが、たぶん、そうではない。

ぼくがしょっちゅう用いる「メロディ」がそのまま「病理」というわけではないような気がする。

そのメロディを奏でるために頻用する「コード」が病理学である、というか……。

あるいは、ギターでいうと第5弦とか第6弦の部分が「病理の話」に相当する、というか……。




クラシックつって話を始めてるのに突然ギターの話になったのはカンベンして欲しい。

けれどやはりクラシックはよくわからないので、自分の興味があるギターミュージックの例えになってしまう。





ぼくにとって「病理の話」というのは語りたいことの本丸でもあるのだが、同時に、病理と関係ない話をしているときもメロディもしくはコードの一部を支えている「音源の根元でずっと響いている何か」である気がする。





クラシックでも歌謡曲でも何でもいいんだけど、そこには大量の音楽理論があって、人々の間で愛され続けてきた曲にはしっかりとした理論が(作り手が知っているかはともかく)あって、その理論というのはなんとなく、「ものを語るとき」にも当てはまるのではないかな……という、予測。

ぼくのこの「世界を貫通するような法則がある気がする」という信念もまた、ギターの第1弦や第2弦あたりにしっかりと張ってある気がするのだ。