ラジオは「ながら」で楽しめるから便利なのだが、残念ながら、仕事中にラジオ的なものを聴いてしまうと、仕事がひどく進まなくなる。
たまに仕事が進むこともあるのだが、そういうときは逆に、ラジオの内容がまったく思い出せない。
「文脈を聴きながら文脈で働く」というのはなかなか大変だ。どっちかしかできない。
思ったより「ながら」は難しい。
どういう「ながら」なら、ぼくは達成できるだろう、というのをいろいろ考えた。
トークは厳しい。
講義系も厳しい。
やっぱ音楽だよなー。
わりとすぐ考え付いた。
そして、しばらく「ながら音楽」の暮らしにいた。
たとえば外国語の歌詞の曲なんてのは、脳をそちらに持っていかれにくい。ぼくにとっては最高の環境音楽だ。「ながら」に抵抗がない。
オルタナ、プログレ、エモコアあたりは、日本語の歌であっても歌詞が突飛で、そこまで脳に直接意味が飛び込んでこない分、作業時に後ろで流しているととてもマッチした。
いつしか、「ながら」で「片手間」に、「適当」に、あまり「本腰を入れず」、「労力を使わず」に、一日中ずっと聴いている音楽が増え、そういう曲が「歌詞が情念を手渡してくるような曲」よりも少しだけ好きになった。
そしてつい先日。
いつもBGMとして流しているアルバムの「元のCD」を久々に引っ張り出してきて、歌詞カードを見たり、ライナーを読んだりして、ぼくは、あっ、と思った。
その音楽はとても丁寧に作られていた。
歌詞も重厚で、世界観が1曲目から11曲目に向けて慎重に練り上げられており、ジャケットも美しく……。
つまりは、このアルバムのためだけに58分ちょっとの時間を捧げることで、バンドが持っているクオリティのすべてを存分に味わえるよう、高度な計算と感性の末に生み出された作品だった。
けどぼくはそのアルバムを「雰囲気」だけで、おそらく作り手の意図の1/5も伝わっていない状態で、何度も何度も聴いて。
「歌詞を書けないけど、裏でかかっていたら一緒に歌えるくらい、耳が歌詞を覚えている(けど脳は覚えていない)」
みたいな状態になり。
まあぶっちゃけた話、そのアルバムが、「人生で一番好きなアルバムのひとつ」なのである。
これはどういうことだろう、と思った。
「ながら」で「片手間」に、「適当」に、あまり「本腰を入れず」、「労力を使わず」に、一日中ずっと聴いている音楽。
この最後がカンジンなのか。
片足しかツッコんでいない。
全力を傾けていない。
誠実な向き合い方をしていない。
そうであっても、「ずっと聴いている」ということ、ただひとつで、いつしか世界観に惚れ込んでしまう、そんなことがあるんだ。
毎日のように聴いている音楽たちを、仕事を終えてから、家で、順番に、じっくりと聴き直している。
しょっちゅう聴いているのに新鮮だ。
愛着がある分、世界に入っていきやすい。
歌詞でこんなことを歌っていたのか、というのも、するする入ってくる。
……あるいはこれは「教育」のひとつの理想型なのではないか、ということをおぼろげに思った。