2019年2月1日金曜日

岐阜県郡上市の大日ヶ岳に源を発し三重県を経て揖斐川と合流し伊勢湾に注ぐ木曽川水系の一級河川

ラジオは「ながら」で楽しめるから便利なのだが、残念ながら、仕事中にラジオ的なものを聴いてしまうと、仕事がひどく進まなくなる。

たまに仕事が進むこともあるのだが、そういうときは逆に、ラジオの内容がまったく思い出せない。

「文脈を聴きながら文脈で働く」というのはなかなか大変だ。どっちかしかできない。

思ったより「ながら」は難しい。

どういう「ながら」なら、ぼくは達成できるだろう、というのをいろいろ考えた。




トークは厳しい。

講義系も厳しい。

やっぱ音楽だよなー。

わりとすぐ考え付いた。

そして、しばらく「ながら音楽」の暮らしにいた。





たとえば外国語の歌詞の曲なんてのは、脳をそちらに持っていかれにくい。ぼくにとっては最高の環境音楽だ。「ながら」に抵抗がない。

オルタナ、プログレ、エモコアあたりは、日本語の歌であっても歌詞が突飛で、そこまで脳に直接意味が飛び込んでこない分、作業時に後ろで流しているととてもマッチした。

いつしか、「ながら」で「片手間」に、「適当」に、あまり「本腰を入れず」、「労力を使わず」に、一日中ずっと聴いている音楽が増え、そういう曲が「歌詞が情念を手渡してくるような曲」よりも少しだけ好きになった。





そしてつい先日。




いつもBGMとして流しているアルバムの「元のCD」を久々に引っ張り出してきて、歌詞カードを見たり、ライナーを読んだりして、ぼくは、あっ、と思った。

その音楽はとても丁寧に作られていた。

歌詞も重厚で、世界観が1曲目から11曲目に向けて慎重に練り上げられており、ジャケットも美しく……。

つまりは、このアルバムのためだけに58分ちょっとの時間を捧げることで、バンドが持っているクオリティのすべてを存分に味わえるよう、高度な計算と感性の末に生み出された作品だった。

けどぼくはそのアルバムを「雰囲気」だけで、おそらく作り手の意図の1/5も伝わっていない状態で、何度も何度も聴いて。

「歌詞を書けないけど、裏でかかっていたら一緒に歌えるくらい、耳が歌詞を覚えている(けど脳は覚えていない)」

みたいな状態になり。

まあぶっちゃけた話、そのアルバムが、「人生で一番好きなアルバムのひとつ」なのである。

これはどういうことだろう、と思った。





「ながら」で「片手間」に、「適当」に、あまり「本腰を入れず」、「労力を使わず」に、一日中ずっと聴いている音楽。

この最後がカンジンなのか。

片足しかツッコんでいない。

全力を傾けていない。

誠実な向き合い方をしていない。

そうであっても、「ずっと聴いている」ということ、ただひとつで、いつしか世界観に惚れ込んでしまう、そんなことがあるんだ。





毎日のように聴いている音楽たちを、仕事を終えてから、家で、順番に、じっくりと聴き直している。

しょっちゅう聴いているのに新鮮だ。

愛着がある分、世界に入っていきやすい。

歌詞でこんなことを歌っていたのか、というのも、するする入ってくる。





……あるいはこれは「教育」のひとつの理想型なのではないか、ということをおぼろげに思った。