人の手を借りないといい仕事なんてできない。
そして人の手を借りようと思ったら、誰か他の人の手になる覚悟が要る。
借りっぱなしってことはまずないからだ。
ぼくが仮に、愛されふわもこボディのトイプードルみたいな人間(犬?)だったら、話は別かもしれない。一生愛されっぱなしで生きていける可能性も高まるだろう。
けれども残念ながら現実は汚い中年homo sapiensである。ふわでもなければもこでもない。愛されながら生きることを期待してはいけない。
すると……。
誰かに手を貸してくれ! と叫んで回ってもだめだろう。
誰かに手を貸すぜ! と叫んで回ってなんぼなのである。
フリーライターになって一人でがんばっている人が、どこかのチームに所属して、「よかった、所属できた、やっぱり一人では限界がある」なんて言っているのを見た。わかるなーその気持ち。
人間は社会的な文脈の中ではじめて霊長類最強になれる。
腕力や体力、ハングリーさだけなら、ゴリラはおろかチンパンジーにも勝てない。
つまり「ひとりでできないもん」こそが人間の真の姿である。
本能だって「ひとりはいやだもん」になっていないとおかしい。
それなのに、ああ、自分でも経験があるのだが、幾度となく、「ここはひとりでできるもん」とか、「ここは俺にまかせて先にいくもん」みたいな気持ちになることがあるのだ。そうでなければ「フリーランス」とか「独立独歩の精神」などという概念はこの世に存在していないはずだ。ふしぎである。
なぜときおり、わざわざ、ひとりになりたがるのだ、ぼくらは。
感情のバグではないのか?
群れるほうが本能のはず。
徒党を組むほうが合理的なはず。
なのに、ぼくらは、思春期にも、壮年期にも、枯れかけた今のぼくみたいな時期にも、ときおり、
「ひとりでやるもん」
みたいな衝動に突き動かされる。これがバグでなくてなんだというのだ。
……じっくり、じっくり、考えてみた。
その結果だから正しいだろうと押しつける気は無いけれど、今、ひとつ、答えが浮かんだ。
ぼくらは、何も持たずに「徒党」に合流することを良しとしない、そんな本能を持っているのかもしれない。
「徒党」に入れてもらえば、確かに、守ってもらえる。
何も持っていなくても、互助精神で、救ってくれる。
けれどもそういうのを「よしとしない」気持ちが、本能に組み込まれているのではないか。
その結果、各人が、ちょっとずつでもいいから何かを「持ち寄る」ことで、自然と「徒党」の全体的な価値が高まっていく。
「誰かのために、自分がやるんだ」という……
「いつか俺が手を借りるときのために、ふだんは俺が手を貸すぜ」という……
そういう気持ちになるように、本能にプログラムされているのかもしれない。
そして、誰かに手を貸すための「手」を鍛えるには、ある程度、孤独である必要があるのかもな。
そんなことを思った。手遊びというのは基本的に孤独を癒やすためのものである。不思議な符合だ。あるいは、孤独は、技術を磨いてくれる研磨剤のようなものなのかもしれない。