ヤンデルくんは、ゴーリキーの「どん底」に出てくる巡礼者みたいだな。
そう言われた。なんだそれは、と思った。
ちなみに市原君ではなくヤンデルくんという呼び名で言われた。
彼に出会ったタイミングについては、それぞれご推測いただきたい。SNSの縁で出会った相手である。なおオフ会ではない。彼が誰であるかは、きっとここを読む人のだれも思い付かないと思う。たぶん予想しても当たらない。少なくともぼくが今までどこかで言及したことはない。
ロシア文学、あっいや、戯曲か。ゴーリキーなんて読んだこともない。
なんとなくほめられの気配を感じたので、ぼくはゴーリキーを読むことにした。岩波文庫で翻訳版が手に入る。
……ロシア文学。まいったな。カラマーゾフの兄弟で血反吐はいたからな。
カラ(略称)のときは「ここだけ話がわかったぜ、おもしろかったぜ」というポイントが一箇所あり、それは裁判のシーンだったんだけど、読書メーターの感想文などをざっとみるとたいていの人が「裁判のシーンはおもしろかった。」と書いていて、あー、みんな同じなんだなあ、フフッ、となった。
というわけでゴーリキーを読んだのだが、まず人名が厳しい。なんでロシア人はこんなにわかりづらい名前を使うのだ。でも、藤田と後藤と後藤田と前田と藤岡と岡田が出てくるような日本の物語だって、読みづらさはたいしてかわらない。お互い様ということか。まあそんな日本の作品は知らないのだけれど。
「どん底」は救いようのない物語だった。貧民窟に希望は全く見あたらない。大きなイベントも起きないし、まさかという出会いもない。思った通りの汚い思惑。たいていそうだろうと予想できるやるせない展開。いかにもロシア文学といった……いやまあロシア文学なんてぜんぜん知らないんだけれど……ふんいきだった。
まさにタイトル通りの「どん底」という物語の中に、途中で、「巡礼者」がさっそうと登場する。
ひょうひょうと現れるおじいさんのイメージ。
スカッとジャパンに出てきて、いやな人をうまいこと言ってやりこめちゃうタイプかな。
自由がどうとかいう。幸せがどうとかいう。
貧民窟の奥底で。
それを聞いて人々はちょっとだけ変わる……ならばよかったのだが、実際には人々のなんたるかは全く変わらない。
ただ、歌だけが残る。
歌いたい人の数がちょっとだけ増える。けれども不幸の総和はまったく減っていない。
2,3人死ぬ。
ひとりは人生を諦めていたのに、巡礼者のじいさんが何やらうまいことを言うモノだから、「そうなのだったら、私はもう少し生きたい」と、生にしがみつく。そしてすぐ死んでしまう。
不幸は減っていないし、不幸が目に見えるようになり、あるいは逆に不幸が一瞬見えなくなったりする。
実を言うと、「どん底」は、巡礼者が登場する部分については妙に読みやすかった。
巡礼者が何かいうたびに、読んでいるぼくも、そうだそうだ、希望を持て! と言いたくなる。
ところが巡礼者はクライマックスを待たずにどこかに消えてしまう。
全く無責任で、自分勝手。勝手に自由の話をして、何も変えないまま、いつしかいなくなる。
読者はやはり、巡礼者の部分が一番印象に残るようだ。
読者メーターをいろいろ見てみた。読者は「何が何やらわからん」と書き、あるいは、一部わかった場所の感想を書いて、深い……とか言う。
巡礼者はあちこちで言及されていた。
みんな、巡礼者のところだけ読んでいるかのようだった。
この構図はまるで医療と医者の関係のようだなと、ぼくは思った。
医療がどれだけ発展していても、人は死ぬし、死を巡る議論は終わることがない。
医療者は介入して何事かを言ったりやったりする。すると、患者やその家族は、ひそめた眉を少しだけゆるめて、勝手に希望を見いだしたり、明日を探したりする。
そして肝心のタイミングで医療者たちはまた次の巡礼へと旅立つ。
残された人々は、医療者達がやってくるより前の頃に比べて、なぜか、歌詞のめちゃくちゃな、歌を歌うことがある。
ぼくはこの「巡礼者」になぞらえられた。
決して「ほめられ」ではなかったなと思う。
けれども、ぼくはまあ、なんというか、とても、すごい、「いやーよく見ているなあ。」と、感心し、大いに微笑みながら、深く深く、歌うように、思索の沼に落ち込んでいった。