という本が、めちゃくちゃによかった。まあぼくはこういう本が元々好きなのだ。
しかし、Kindleで買ったのは失敗だった。Kindleの仕様に、こんな「ワナ」があるなんて、思いもよらなかった。
ぼくは、探検とか冒険モノの本を読むときに、自分に課していることがある。
それは、「カラー口絵の写真をじっくり見すぎない」ことだ。
世界各国を訪れて人にできないことをするタイプの本では、たいてい、巻頭にカラー写真が載っている。そこには著者自身が写っていたり、著者が訪れた国が載っていたりする。
これらの写真をみていつも思うこと。
本文を読む前に写真をみたときの感想と、本文を読んだ後の写真の印象とはまるで違うということ。
本を買った直後は、口絵を見ても、あまり自分がその写真に感情移入できない。著者にも何の思い入れもない。うまい写真家が撮っていてもだめだ。それは「うまい写真にしか見えない」。
外国の地で笑う子どもの笑顔を見ても、「まあそういう写真を撮ったんだよな」。
きれいな風景写真を見ても、「まあきれいな場所がうまく撮れたんだな」。
ここまでである。
けれども、本を読み終わってから写真を改めて眺めると、その写真が持つ本当の意味みたいなものが、脳髄に向かってぐんぐん近づいてくる。
「著者はあんなに大変なエピソードを経験したあとに、この子に出会ったのか……」。
「極限まで命を削って、もう半日後に自分がどうなっているか予想もつかないまさにそのタイミングで、見た夕日がこれなのか……」。
これが最高にいいのだ。
ぼくは、冒険譚にまつわる写真というのは「物語込み」で見るのが好きだ。
写真をただ見るというのはAIでもできる。
しかし、そこに、過去に自分が経験した記憶、さらには他人が歩んできた歴史などを盛り込んで、「解析」することは脳にしかできない。
ぼくは冒険譚にまつわる写真は脳で読みたい。
だから紙の本で冒険譚を読む時、ぼくは口絵を指先ですっとばしてしまう。
なんとなく、著者の顔くらいはチラ見しておくこともある。本文を読む上でイメージがしやすくなるかもしれない。けれども、そこまでまじめには読まない。文章の力を信じている。
件の本、「北へ」を読み始めたときも、冒頭の口絵はすっ飛ばした。フリック! フリック! あとで読みに戻る!
ところが……。
もっとも物語が佳境にさしかかる、というタイミングで、なんと、「中間カラー」みたいな写真ページが突然はじまった。
ぼくはその写真をまじまじと見てしまった。
これまで楽しく読んできた物語のおかげで、写真の意味が伝わってくるのだ。だから、思わず、一枚一枚、じっくり見てしまった。ここまでの物語が巻き起こした感動が、写真を意味あるものに変えていく。
そして、悲劇は起こった。
そこに掲載されていた写真の、最後の数枚には、本書の「ラストシーン」のネタバレがはっきり写っていた。
ぼくは呆然とした。
この物語が!
事実に基づいた感動的な展開が!
最後、どのようになるかは!
まだわからなくていいはずなのに!!!
なぜここに!!!
その写真を載せるんだ!!!!!
もし本書を紙の本で読んでいたならば、きっとぼくは、いつものように、「中間カラーページ」の存在を「指先の質感で感じて」、さっさと読み飛ばしていたはずなのだ。実は、そういうことは過去にもあったから。ぼくの指はそういう「読み飛ばし」の記憶をきちんと持っているはずだった。
でも、Kindleだったから。
指先にからむ紙質に違いがなかったから。
ぼくは口絵の到来に気づかなかったし、写真をすべて見てしまった。
うおおおおおあああああという声が副鼻腔のあたりに響いた。
ラストシーンの感動は1割ほど減った。1割程度だ。素晴らしい本だったといえる。間違いない。みんなにもおすすめだ。
けれども、ぼくは、10割感動したかったのだ。
Kindle版のバカ野郎。
読み終わってから、ぼくはあらためて、例の感動的な「中間口絵」を見に行こうと思った。
けれども電子版の目次に、「中間口絵」の存在が記載されていない。
目次から飛べない。
そうなるとまた読み直さないと、どこに写真が出てくるかがわからない。
怒りのやりばにこまった。優れた作品に拍手しながら切腹したかった。
指でぱらぱらと読み飛ばせないKindleはクソである。
誰がなんといおうと紙の本が最高だ。
ちきしょう。こういうハプニングは冒険譚の中だけで十分なのだ。