ネットとの距離感というのは、「薄情な自分と、薄情な他人との距離感」である。
駆け寄っていって肩を抱くことはできない。
噛みしめて堪えた感情は伝わらない。
とにかく情を通わせるには不十分なのだ。この場所は。
けれども知は通うのである。わりと十分に。
たとえば病理診断を遠隔でやるとか、臨床カンファレンスをオンラインでやると言うと、すぐに
「ネットでは画像の細かい対比は難しいのではないでしょうか」
とか、
「電話越しだと議論もなかなか深まりませんよ」
などというのだが、実際ここまでいろいろやってきて、わかった。知に関してはネット越しで十分だ。むしろ、気軽に、回数多く、距離の制約を受けずに何度もやりとりできるネット越しのほうが、知を交わす上では優秀かもしれない。
「会わなければ広がらない知」というのはそう多くないだろうな、と感じている。
つまり「会わなければいけない」のは、ぼくにとっては、もっぱら「情」の部分なのである。
「薄い情」では困るような相手と、きちんとやりとりをしようと思うと、モニタ越し、インカム越しでは、心許ないなと、ぼくは今も思い続けている。
そして最近ふと考え付いた言葉遊びがあるのだが、
知の一部は情によってもたらされている可能性がある。
ほら、「情報」っていうじゃないか。
インフォメーションには情の側面があるのだ。
となると……「薄情なままでもやりとりできる知の一部分」を交換するときにはネットはとても役に立つが、「情の厚さがものをいうような知」をやりとりしようと思うと、実際に会って話したほうがいいのではないか、という話になって。
病理学は薄情な分野だよねと思われているふしがあって。
うーん。
人に会って話すということを、今後もやらなきゃいかんのだろうなあ。
薄情なぼくは出不精でもあるのだ。これだけ出張しておいて何をいってやがる、と、薄情な君たちは笑うことだろう。