2016年12月12日月曜日

病理の話(27) カンファレンスでの立ち位置

病院内にも、会議が多い。会議の中には、収支、会計、営業報告のような一般企業にありそうなものもあるが、一般に「カンファレンス」と呼ばれる、医療現場独特のものもある。

カンファレンスがなくとも、医療は回るけれど、カンファレンスがあったほうが、医療はよりよく回る……と思う。

しかし、まあ、カンファレンスだって、広義の会議である。くそくだらない会議を嘆くサラリーマンがいるのと同様に、つまらないカンファレンスを嫌う医療者だっている。



カンファレンスとは何をする場なのかというと、科とか職種ごとのコミュニケーションをとる場だ。いまどきの医療は、一人の裁量でどうにかできるレベルを超えている。特に、がん診療はとてつもない量の人間を巻き込む。キャンサー(癌の)ボード(会議)という、がん専門のカンファレンスが定期的に開催されている病院も多い。


胃癌を内視鏡で発見したのが消化器内科、それを手術で切るのは消化器外科、と言うように、医療というのはけっこうな確率で「科をまたぐ」。内科と外科のドクターの間で、意思の疎通がとれていないといけない。内科が手術に必要な検査を済ませているか? 外科医が知りたい情報はすでに検索されているか? これから追加しなければいけない検査はあるか?

手術お願いしますよ、はいはいわかりました、と、「廊下での立ち話」で済ませていた時代もあるとは伝え聞く。けれど、現代医学では、口先でちょろっと伝達する程度で、手術のような高度な生体侵襲作業に突入できるわけがない。

内科の発見した癌というのはどれくらい悪い癌なのか? どれくらい進行していると「読んで」いるのか? リンパ節転移の可能性は、どれくらいありえるだろうか?

内科と外科だけではない。麻酔科とも相談が必要だ。どのように麻酔をかけるべきか? 患者さんに麻酔のリスクがあるかどうか? 循環器内科に心臓のことを確認しておかなければいけない。不整脈などの病気はないか? 血液をさらさらにする薬を飲んでいるけれど、手術で切った時に血が止まりづらくなることはないか? ほかにも持病があるならば、それぞれの科のドクターと連絡調整を行わないといけない。

時に、放射線科も参戦する。放射線科医の「読み」では、癌はどれくらい広がっていると考えられるのか? 内科の医師は、それをどう考えているのか? 外科医はどの範囲を切除すれば癌を採り切れると考えているのか? その範囲を切った後、どういう副作用が想定されるのか?


そこに入っていく、病理医がいる。

ここまで、いかにもかっこよさそうな展開で書こうと思っていたのだが、今日はここから先、けっこう、残念な話になっていく。

このブログでは、何度も偉そうに書いてきたけれど、病理診断報告書は、臨床医がきちんと読み解けるように書くのが基本なのである。だから、報告書さえあれば、診断を書いた病理医本人がカンファレンスに出席せずとも、要点は伝わっているのだ。

それでもあえて病理医がカンファレンスに顔を出すことに、どれだけメリットがあるのだろう。

あえて、あえて、書くけれど、中途半端な知識で「俺は臨床にも詳しいんだぜ」と半可通を気取る病理医がカンファレンスに出ると、現場のドクター達は困惑し、失笑するものなのである。

「いや、勉強したとか、昔やっていたとか、俺は診断はプロだからとか、その程度の自負でね、最新の診療に口出しをされましてもですね。テンションが違うというか、レベル的にもやもやすると言うか……。ご自身のお仕事さえしっかりしていただければいいんで、あまり横から出てこないで下さいよ」

こういう声も、実際に聞く。創作実話ではなく、本当に聞こえてくるから悲しいものだ。知人医師に聞くとこんなことを言った。

「病理医でへたに臨床かじってる人? うーん、ドラクエでさ、僧侶がさ、いちおう、敵を殴るじゃん。戦士ほどじゃないけど。で、たまにそれで、メタルスライムとか倒すじゃん。ああいう感じ。俺、物理もいけるよ、みたいな。なんかそういうイメージ」

決していいイメージではない。


もちろん、上記のイメージというのは、病理に限った話ではない。カンファレンスが頻繁になった現代医療において、科のカベを越えて「相手の専門領域に口を出す場面」というのが増えてきたからこそ顕在化してきた、「軋轢のかたち」なのだ。カンファレンスで、各科の意見をぶつけ合うといえば聞こえはいいが、実際にやっているのが

「俺の方が専門のてめぇよりも読めてるから。わかってるから」

みたいな、自己顕示のぶつけ合いであっては、誰のためにカンファレンスをやっているのか、わかったものではない。



ぼくはどちらかというと、悲観的な人間である。自分がでしゃばるのはたぶん好きだ。しかし、少しのタイムラグの後に、「余計なことをしてしまったのではないか」「相手は苦笑していたのではないか」ということを気にする。ぼくがカンファレンスに出てやってきたことは、

「自分、めっちゃ臨床のこと、勉強してるでしょう? 病 理 医 な の に ! 」

という、反骨精神だったり、歪んだ承認欲求だったりはしなかったろうか。そういうことを考えてしまう。



たぶん、ぼくは若さを失ったのだ。きれいに中年に突入しているから、こういうことが気になるようになった。それは年齢とか経験年数というものとは少し違う、精神的な摩耗によるものなのかもしれない。

「カンファレンスのお荷物とか目の上のたんこぶではなく、実際に病理医がカンファレンスにいて、周りがみんな助かると感じ、患者のためにもなるような、病理医の出方、あり方、仕事の仕方とは何だろうか」

これを、ずっと考えている。次回、書けたらよいなあと思うのだが、次回までにまとまらないかもしれない。


このブログ、ある程度計算して、最初からこれとこれとこれを書こうと決めて始めたのだが、30話くらいにこれを書こうと思っていた話題が、「病理医がカンファレンスで役に立つとはどういうことか」であり、正直、うまく書けるかどうか、まだわからないでいる。

「フラジャイル」で言えば、「岸先生のやり方」も、「高柴先生のやり方」も、一つの回答なのだと思うが、さて、ぼくが自分のコトバでここに書くとしたら、自分が普段やっていることをどのように記載できるのだろうか。


続きます。たぶん。