細胞をみて病気に名前をつける。
あるいは、その病気が、どれくらい進行しているのかを調べ上げる。
これが病理診断医の主たる仕事である。
では、具体的に、ある病気を顕微鏡で見て、どのように名前をつけているのか?
たとえば胃カメラを飲んだときのことを考えよう。
胃をのぞいてみて、そこに何かできものがあったとする。
ぼこっと盛り上がっているか、少しくぼんでいるか、あるいは周りと比べて色が違うか、模様が違うか。さまざまなバリエーションがある。
ここで、内科医は、カメラの横からマジックハンドのような「生検鉗子(せいけんかんし)」を出す。
マジックハンドで、病変部分から、小指の爪の切りカスくらいのサイズの「粘膜」をちょろっと拝借する。
この粘膜のカケラを、病理検査室でプレパラートにしたてあげる。
向こうが透けて見えるくらいの4 μmという薄さにかつらむきして、ヘマトキシリン・エオジンという色素で色を付ける。
そして顕微鏡でみるわけだ。
いろいろな診断理論がある。
細胞の何をみたら、病気の種類がわかるのか。ひとことでは言い表せないのだが、たとえば、
「元々そこにあるはずの構造がない」
というのは一つのヒントだ。
このとき、ぼくらは、たとえばこのように診断書を書く。
「非腫瘍性の胃粘膜が部分的に破壊され、異型を有する細胞が浸潤しています」
この解説をみたとたんに、一般の人々は、ウワァッとギブアップしてしまう。何が書いてあるかわからないからだ。
そして、実のところ、多くの内視鏡医も、心の中でギブアップしている。何が書いてあるかわからないからだ。
そう、たとえ医者であっても、顕微鏡で細胞をみた姿を事細かに記載した「病理診断報告書」の意味は、わからない。
これがわかるのは病理医と、一部の超絶マニアックな(おせっかいな?)臨床医療者くらいのものである。
そのためか。
たまに病理診断報告書には、この、「細胞がどう見えたか」という文章が省略されていることがある。過程を書かないのだ。
どうせ書いてもわからないから。
あるいは、いつも同じことを書くことになるから。
過程は省略して、結果だけを書いてしまう。
「胃癌です。高分化型の管状腺癌です」のように、主診断名と、細かな分類名だけを書いて終わりにすることがある。
患者はこの「主診断名」もよくわからないことが多い。病理でついた名前を臨床医が細かくわかりやすく解説して、はじめて、どのような病気であるかが腑に落ちる。
そして、臨床医はしばしば、「病理医ってのは細胞をみて、がんかがんじゃないか決めるだけの仕事だから楽だよな」みたいなことをいう。
でも、箇条書きにして簡略化してしまっている病理の仕事の奥には、理論と、文章と、意図が秘められているのだということを、忘れてしまうのは少々もったいない。
たったひとこと「がんです」と書くために、病理診断医は細かく細胞を描写する力を身につけておかなければいけないのだ。
キリンの写真をみて「あっ、キリンだ」と一発でわかるのは、キリンに特徴的な首や足があるからだ。
だから細胞をみて診断する作業も「瞬間的に行われる」と思われがちだ。実際そういうこともあるにはある。
けれど、ぼくらはたとえば、アフリカゾウとインドゾウの違いはあまりわからない。
これらの違いを決めろといわれたら、細かいお作法に従って、ゾウの大きさや鼻の形状、細かい色の違いなどをきちんと網羅的に解析しなければいけないだろう。
細胞をみて診断するというのもこれに似たところがある。
今、「お作法」という言葉を用いたが、先日購入した「外科病理診断学 原理とプラクティス」という本の序文に、この言葉が出てきた。
病理診断のお作法をしっかり学ぶことは、初学者にはもちろんだが、研修医を指導する中級医クラスの人間にとっても役に立つだろう、という意味のことが書かれていた。
ぼくは小躍りしながらこの本を読んでいる。お作法をきちんと学べる本は楽しい。
外科病理診断学 原理とプラクティス (金芳堂): https://www.amazon.co.jp/dp/4765317668/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_R51.BbJY5KQT6