みもふたもないことをいうと、ぼくの尊敬する人たちの多くはあまり本を読んでいない。
もちろん割合の問題であって、たくさんの本を読むことで多くの知識を使いこなしている偉人みたいな人も何人かは知っている。
けれども、「言葉を使いこなしているのにぜんぜん本を読んでいない人」がいっぱいいることは事実だ。
ぼくは、読めば読むだけ世界が広がると思っていた。
本を読んだ数がその人の深さを決めるものだと、どこかで信じたかった。
だってぼくはよく本を読むほうの人間だったから。
自分がよかれと思ってやっていることの先に、なにか、すごく楽しそうな地平が開けていると、信じたかったのだ。
でも実際には、そういうわけではなかった。
別にそれほど本を読んでいなくても、日本語を美しく使いこなす人たちはいっぱいいるし、ドラマのような人生を華やかに送っていくタイプの人もいた。
おまけに最近立て続けに、
「本を読んでばかりいると、人の思考を借りてばかりいる人になってしまうよ」
とか、
「論文を読むことに熱心になりすぎると、論文が書けなくなるよ」
みたいな話を耳にした。
とどめに、
「自分の人格を広げようと思って何かを読むなんてつまらない。
そんな目的のための読書なんておもしろくもなんともない。
本を読むのは単に内容がおもしろいから。そして、本を読んだ自分が楽しくなったり深く考え込んだりするのがおもしろいから。それでいいじゃないか」
という内容の文章を読んだ。
ああーそうだな。「○のために本を読む」なんて、一番つまらないことだよな……。
こうしてぼくはまた人の文章に影響を受けながら、「何かのために読む読書はつまらんのかなあ。」なんてことを考えている。
他人の言葉を借りて。
いっそぼくは、「何かの役に立つと思って本を読み続けていたくだらない人です」と言いながら、それを完遂するのがよいのではないか。
人格が変わると思ったんです。
尊敬されると思ったんです。
ですからもうとんでもない量の本を読みましたよ。なぜか文章力はあがらず、博覧強記にもなれませんでしたけれどもねえ。
そんなことを言いながら竹林の庵に引きこもってしまえばよいのではないか。
……たしか1800年くらい前の中国にもそういう人がいたんだよな。
本に書いてあった。