2018年12月26日水曜日

病理の話(277) 病理医が対面することの意味

医療者とSNSの関係を模索するイベントというのが、近年あちこちで計画されている。

ぼくのところにも、あるイベントに出席して欲しいと依頼が来た。

場所は東京、開催は土曜日の夜。

手帳を確認すると、ちょうど翌日に東京で内視鏡系の研究会に出る用事があった。これなら、旅程を一日早めれば参加できる。土日なのも幸いした。

SNS系のイベントには今まで(しゃべる役としては)出たことがない。そもそも依頼が来ても断っていた。ただ、今回は医療者として登壇してほしいとのことだったので受けた。

医療情報の広報とか啓蒙という話には、今でも興味がある。

昔ほど自分で情報発信を担おうは思っていないが、自分のひとことが悪い方向に伝達されないように自衛する意味でも、我々の何気ないひとことが世間にどれだけ悪い影響を与えるのかを自覚する意味でも、勉強は続けておいて損はない。

医療者は本質的に、誰もが中動態的に広報に携わっているのだ。




以前にも、医療者としてSNS系のイベントに呼ばれたことはある。そのとき呼ばれたのは大阪だったのだが、交通と業務の都合上行けなかった。札幌から大阪まで行ってイベントに出ようと思うと半日休みをとらなければいけない。業務終了後に移動開始してはいろいろ間に合わない。イベントまで1か月ない状態でお誘い頂いても、残念ながら翌月の業務はもう動かせなかった。こういうとき、札幌という土地は田舎だなあと感じる。

SNSの話題なんだから、わざわざ1箇所に集めないでオンラインでやってくれればいいのにな、と思わなくもない。

でも、おそらく、「ゲストには遠隔で、画像と音声だけ参加してもらいます!」という宣伝文句だと、人は呼べないのだろう。




この「人というのは実際に会わないといい仕事ができない、魅力や価値が伝わらない」という考え方は、個人的には信仰に近いと思っている。

けれども、「会うこと」に価値を見いだしている人間がこれだけ多い以上、そのオカルトをぼくは無視できない。




本来、「会わないとだめ」をいかに乗り越えるかがSNSに背負わされた使命なのだ。

となると、

「いつもは『会わないとだめだ』と思っているはずの人間たちがSNSでつながっている。そんな人々は、SNSに何を見いだし、SNSは何を生み出すのかという話を、SNSでやらずに、実際に会って話す」。

というのは入れ子構造であり自己矛盾であろう。

矛盾をはらむとイベントは作りやすい。




医療の目的は、患者がどう幸せになるか、どう不幸せを克服するかというところにある。そして、

「患者にメリットがあれば、医療者と患者が対面しなくてもよい」

という考え方は、医療においては通用しない。

患者の多くは

「医療者と直接会うこと」

に強い価値を見いだす。

AIがどれだけ進歩しても、患者が信頼できそうな医療者と対面することなしには、医療は完結しないだろう。

ただしこのとき、「会うだけ」のために配置された医療者にどれだけ給料を払うべきなのかはこれから吟味する必要があるけれど。

「その場にいて寄り添ってくれる人」に高い金を払えるほど、これからの医療経済がうまく回っていくとは思えない。ぼくはそれほど楽観的ではない。



この話を考え続けているといつもたどり着くポイントがある。

ぼくはそもそも一緒に働いている医療者たちに、どれくらい、

「会わなければ困る病理医」

と思われているのだろう。

たまに投げやりな文句をネットで目にする。

「病理医なんてぜんぶAIになるから必要ないじゃん」

これを言う臨床の医療者たちは、実際、病理医に「会うだけの価値」を感じていないということだ。

実際にその医療者たちは今まで「生身の病理医抜き」で仕事を回してきたのだろう。

その仕事をぼくから見たら、いろいろと残念なところが見えてくるかもしれない。

学術的に終わってるところも出てくるかもしれない。

しかしその医療者はすでに、患者に十分に幸せを与えているかもしれない。

だとしたら「生身の病理医がいらない医療」にも十分な価値はあるということになる。




SNSを使い続けているぼくは、「会うに値するかどうか」みたいなことを考え続けるようになった。

「値する」というのは、メリットがあるかどうかだけでは判断しない。支払ったコストに見合っているかという見方が重要になってくる。

「ネットで盛り上がっている内容を、顔を付き合わせて肉声でどれだけやる価値があるか」。

「病理医を臨床現場に配置せず、AIとデータベースと中央集権的な一部の天才によって運営してはいけないのか」。

これらは一見まるで違う話に見えるかもしれないが、ぼくの中ではほとんど同一の問いだ。

かくいうぼくは、病理学は究極的には人間が顔を付き合わせる「ウェット」から脱却して、どこまでも「ドライ」であってよいな、と思っている。病理学者はヒューマニズムからは無縁であっていい。どこまでもアカデミックであっていい。

けれども病理学者ではなく「病理診断医」がどうあるべきかについてはまだ迷っている。

ぼくにウェットな対面を求めてくる医療者は、今はそれなりの数、いる。

学会や研究会に呼ばれる回数は減っていない。これだけSNSが進歩しているのに直接呼ばないと、顔を付き合わせないと満足できないらしい。

だとしたら今後のぼくは、彼らとじっくり「顔を付き合わせて」、「腹を割って」、何を伝えていけばよいのだろう。

あるいは、「もう会わなくていいと思う」と伝えていくことになるのか。

そこに医療者の幸せがあるだろうか。医療者が現在抱えている不幸を克服することができるだろうか。払うコストに見合ったメリットがあるのだろうか。