2018年12月14日金曜日

桃太郎という主人公もいるが

西遊記の主人公は三蔵法師ではない。

玄奘三蔵は唐からインドまで、16年かけてお経を取りにいったのだという。その伝説的な旅程が華やかに彩られたのが西遊記だ。

「現実に存在して」、「お話のモデルとなった」、玄奘三蔵が、まあ普通に考えると主人公ではある。

けれども、中国四大奇書のひとつである西遊記がこれだけ知名度をあげたのは間違いなく、「架空の」孫悟空のおかげだろう。

少なくとも玄奘三蔵の苦行と偉業だけでは、国をまたいで日本という隣の国にまで名前が伝わることはなかったと思う。




「フィクション」にはそういう力がある。

もちろん玄奘三蔵というのは世代を超えて語り継がれるすばらしい業績の持ち主だったのだろう。

今でいうとノーベル物理学賞受賞者とか、そういう感じの存在だったはずだ

でも、冷静に考えてみてほしい。

あなたは3年前のノーベル医学生理学賞を誰がとったか覚えているだろうか?

ぼくは覚えていない。

検索したらなんと大村智先生だった。日本人だぞ!!

なぜ覚えていないのだ。ぼくは愕然とした。当時あれだけ盛り上がったのに。

でもおそらく皆さんの9割も同じではないかと思う。

高尚すぎる方の業績なんて、われわれ一般人は語り継げない。

クイズ王でもなければ、日本人の偉大な科学者たちを全部覚えているなんてことはない。

言われれば思い出す。「ああ、あの、イベルメクチンの」。

そこまでだ。

エライ、スゴイ、だけでは語り継げない。ぼくらはすぐに忘れてしまうのだ。




中国でも、日本でも、昔の人たちは、そういう「感覚」をわかっていたのではないかな、と思う。

何か大きな出来事があり、誰か大きな人が登場するときには、鳳凰が飛び回ったとか、竜が降臨したとか、仏像が涙を流したとか、そういった「フィクション」がたいてい一緒に伝わっている。

これらのエピソードを果たして「フィクション」と切って捨ててよいのかどうかはわからないところもある。けれども、少なくとも、ノンフィクションだけでは「伝わりきらない」ことを考えて、フィクションで彩った、というのが本当のところなのではないか。




で、今日言いたいことは、そういう、「フィクションの助け」をたまたま得られなかった偉人、みたいな人が、きっと歴史のあちこちにいるのだ、ということ。

なんか「マイナーなまま危うく歴史に埋もれるところだった、すごい伝記」が気になってしょうがないのである。たまたま孫悟空を見つけられなかった三蔵法師、みたいな人の話を読みたくてしょうがない。

「がん免疫療法の誕生」(MEDSI)という本は、ぼくのそういう欲求に答えてくれている。

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