2018年12月21日金曜日

病理の話(276) かけはなれを定義しよう

細胞の性状をみて、たとえば核とか細胞質といった細胞内の構造をみて、

「正常の細胞からどれくらいかけ離れているか」

を考えるのが病理診断のキホンである。


核の中には、その名の通り細胞の中で非常に重要な「プログラム」、すなわちDNAが入っている。

この核のサイズが普通の細胞に比べて大きいとか、異常な形をしているとか、核膜と呼ばれる構造がガタガタしているとか、染色したときの色合いが濃いとか薄いとか、これらの「かけ離れ」を見つけたとき。

ぼくら病理医は、「ああ、DNAのある場所がおかしくなっているなあ」と考える。

DNAなんてものは本来、1つの細胞に1セットあれば十分だ。また、DNAは必要に応じて稼働するプログラムなので、あたかも分厚い広辞苑とか聖書のように、普段はきちんと折りたたまれている。必要以上にページがたぐられたり、開いたまま放っておかれたりはしない。

一方、核がおかしいときは、このDNAのセット数が増えてしまっていたり、広辞苑のあちこちがめったやたらに開かれまくっているといった状況にあたる。

これは正常の細胞ではありえない。

細胞の統率がうまくとれていないことを示す。

……そういう細胞は、「たいてい」、がんである。

ぼくらはそうやってがん細胞を探している。




けれども。

核がなんだかおかしい細胞が、「がんではない」こともある。

たとえば、細胞の周りに規格外の争乱が勃発していて……医学的にいうなら「強い炎症」が起こっていて、細胞たちがザワリザワリとざわついていることがある。このとき、細胞は、自分たちの身を守るために、せいいっぱい頭を働かせて(?)、プログラムを次々とひもとく。

「周囲がヤバいことになっているので、善良な細胞たちも全力でプログラムを稼働させなければいけない」ときには、細胞の核は「普段と比べてかけ離れる」。




細胞の核をみて、ああ核がおかしいからがんだな、と、パパッと絵合わせゲームで診断をできるほど、病理診断は甘くないのだ。核がおかしいからといって、がんじゃないこともあり得る。

周囲の状況、とくに細胞がざわつく理由みたいなものを、きっちりと情報収集しておかないと、その細胞が真に「狂っている」やつなのか、「たまたま状況に流されて一時的に狂っている(そのうち元にもどる)」やつなのかを判断できない。

なんだか難しそうだろう?

実際に難しい。病理医としてのキャリアが長いベテランほど、「かけ離れ」の判断には慎重を期する。むしろ経験が浅い、若い病理医は、「『異型』の判断なんて、普段はそれほど難しくないですよ」みたいなことをいう。




突然、「異型」という言葉を使ってしまったが……。

「かけ離れ」のことを、病理学用語で異型と呼ぶのだ。

細胞の構造が本来のものと比べてかけ離れているとき、「異型がある」と呼ぶ。

かけ離れが強ければ、「異型が強い」とか、「高異型度」などと称する。

単なることばだ。

されど、ことば。




病理を勉強し始めたばかりの人は、とにかく病理診断報告書に「異型があります」「異型細胞があります」と書きまくる。

異型がある、ということばは、「性状がふつうの細胞に比べてかけ離れている」という意味である。それ以上でも以下でもない。

けれども、初学者はしばしば、「異型がある」を「がんである」という意味で用いていたりする。そういう報告書を読むことがある。

そうとは限らない、というのは、先ほどまで説明してきた通りだ。




まあ、正直、ことばの一つ一つを厳密につっこむのは、本意ではない。

日常臨床で、病理医の用いた日本語に対して挙げ足をとっても、あまり生産性は無い。

けれども。

ぼくらは細胞の「形態」をみるという、言ってみれば人によってどうとでも取れるきわめて主観的な判断によって、細胞ががんなのかがんでないのかを判定しているわけで……。

ぼくらが「ことば」を大事にしないとき、ぼくらの存在意義もまた揺らいでいくのではないか、と思う。




今度ぼくらの存在意義に関係するイベントに登壇することになった。詳細は後日。ぼくは「悪役」をわりあてられる予定である。