たとえば、「念のための検査」とか、「念のための投薬」。
昔のお医者さんはやってたからさ。安心のためにね。何かあってからじゃまずいから。
そういう、だらけた、なしくずし的な医療というのは、すごく厳しくカットされるようになった。
でもこれって言うほどかんたんじゃないのだ。
例えとして、冬のインフルエンザのことを考える。
多くの人が熱が出たと言って病院をおとずれる、冬。市町村はインフルエンザ警報をがんがん鳴らしている。
そんなおり、とうとうぼくにもやってきた。あいつが。
38度以上の熱があって、全身がだるくて、ごほごほ、ずびずび、ぐったり。
まあインフルなんだろうなー。
そう思って病院に向かう。
すると、鼻の穴にほそい綿棒をつっこんで、インフルエンザの迅速検査をされる。なかなか不快な検査ではある。
検査の結果は……陰性! インフルエンザの証拠は検出されなかった。
じゃあインフルじゃないってことかなあ。
すると医者は言う。
「まあ検査は陰性だったんですけどね、検査って100%正しいわけじゃないんですよ。あなたの場合は、症状を考えると、インフルエンザである可能性がかなり高いと思いますから、インフルエンザの薬出します。」
……検査した意味、あったか……?
や、ま、繰り返しになるのだけれど、この場合、ぼくがやられた検査がまったく無意味だったとはなかなか言えない。難しい理屈もある。けれども結果的には、
検査の結果を見ても、見なくても、結局はほかの症状とかから総合的に判断して、インフルエンザである確率が高いからインフルの治療ゴー!
となったわけで……。
なかなかフクザツな気分になるではないか。
今まで、「なんとなくやるべきだと思っていた検査」、「やった方が良くわかるんだからやるべきだと思っていた検査」の一部は、その後、さまざまな情報を元に冷静に考えてみると、
「やってもやんなくても結果に影響を与えないことがあるなあ」
ということがわかりはじめた。インフルエンザのキットが絶対にだめだと言いたいわけじゃないよ。悪しからず。でも、「絶対にこの検査をやらないとだめ!」みたいな判断も難しくなっているということだ。
さて……。
話は「病理診断」に向かう。それも、「顕微鏡診断」の話だ。
今、病理医というマニアックな職業人が主戦場としている、顕微鏡診断の世界。
顕微鏡をみて細胞の挙動を直接観察することで、ぼくらはとても多くの情報を手に入れるのだが……。
その「細胞の情報」がほんとうに、患者や医療者にとって、役立つものなのか、ということを、ぼくらはすごくきちんと見直さなければいけなくなった。
さっきのインフルキットみたいに、「陽性であっても陰性であっても、診断や治療の方針に影響しない」場合がある。
あるいは、「陽性だろうが陰性だろうが、その他の検査で得られるデータのほうが貴重である」場合もある。
このことがはっきり見えてきたのは実はAI(人工知能)の参入が見えてきたからだ。
AIは、細胞をみている病理医が一番エライ、みたいな価値観をもたない。
そのためか、ありとあらゆる臨床情報を、AIにぶちこんで、患者が今後どうなるかを予測させると、どうやら、細胞の情報が必要なくなっている場合があるようなのだ。
細胞診断が無駄だと判断される未来がくるかもしれない……。
そうなったら、顕微鏡診断しかできない病理医は廃業するしかない……。
けれども、そう落ち込むことでもない。
AIによって、逆に「病理医が細胞だけみてくれれば、その他の検査は必要ないという場面」も浮き彫りになってくるからだ。
医療の現場に無数にころがる選択肢のうち、どれが一番「患者の将来を正しく予測できるか」を判断するのはなかなか難しい。
検査A,B,C,D,Eが取りそろえられているときに、AとDだけやればいいと気づくためには膨大なチャレンジが必要だ。しかし、どうも、AIはそういう「どの選択肢が一番効率的か」を判断するのは得意なようである。
ぼくはAIの開発に携わらないかと声をかけられたときに、いろいろなことを考えた。
顕微鏡診断の一部を終わらせながらも、病理医がこれまで以上に活躍できる未来、というのは、それなりに高確率で、見えてきたような気がするなあ……というのが、考えた中では一番希望的な観測だ。
ほかにもいろいろ見えてきたものはあるけれど、それを書くのはまた別の機会に譲る。
とりあえず最後に書いておきたいのは、病理診断というものは病理医が飯を食うために行うものではなく、患者と医療者の未来のためにあるべきものだ、ということだ。