2019年6月19日水曜日

パッショナルコンピュータ

チョコパンって10回言ってみて。

チョコパンチョコパンチョコパンチョコパン
チョコパンチョコパンチョコパンチョコパン
チョコパンチョコパンチョコパン。

今1回多かったよね。

そう?

まあいいよ。

そう?

じゃこれは何?

ぱちょこん!




というわけで機内でパチョコンを開いている。Wi-Fiが使える飛行機が増えて助かっている。でも別に仕事をしているわけではない。ほんとは仕事でもすればいいのかもしれないけれど、そこまで熱心にやろうという気にはならなかった。

札幌に帰る途中の飛行機である。

さっきまで、日本臨床細胞学会に出ていた。今回は主に単位をとるための出席だったので、あちこちで講演を聴き、スタンプラリーをめぐるように受講証明書を集めた。

少しぐったりとしている。機内の冷房がきつい。

だらだらとネットをみている。スマホでみればいいのだが、もう充電が心もとない。ノートパソコンのほうが、まだ持ちそうだ。





遠くの席で子供が泣いている声がする。





自分の子供が小さかったころ、自分の子供以外の子がどこかで泣いている声に異常に敏感になった。

あれはおもしろいよなー、本能なんだろうなー、子育て中は、どこかで子供が泣いていると、すべての意識がそっちに持っていかれるようになるんだ。それは自分の子供でなくてもだ。

不快というよりも、なんだろう、敏感になるというか……。

子供が少し大きくなった今、遠くで泣いている子の声は、ふたたび単なる「泣いている子の声」に戻った。

もう、何も思わない。神経過敏は一過性だったのだ。





「自分が興味をもつ分野に対して敏感になる」という現象はたまに起こる。

たとえば、最近好んで読んでいる死生観とかチーム医療、ケアの文脈に対して、ほんとうにさまざまな記事が目に飛び込んでくるようになった。同じくらいの情報は以前にも世にあったはずなのに、そのころはあまり見えていなかったのだろう。これはつまり「敏感になった」ということだろう。

けれどもなんだろうな、さっきの、「遠くで泣いている子供の声がやけに耳に入ってくる」みたいな、脳の奥の神経1,2本にさわさわと触れるような敏感さと比べると、なにかちょっと真剣みというか焦燥感のようなものが足りない。

ぼくはほんとはもう少し、気持ちがなでられるような落ち着かない気分になるような、そういうものが読みたいのかもしれないな、と、開いていたブラウザの大半を閉じながら、ぼんやり考えた。





毎日のようにどこかに何かを書いて捨てていく暮らし。

たまにふと思い立って自分の書いたものを見返すと、明らかに「この日は文章に乗っている熱の量が普段の3倍くらいある」と感じるところがある。

そういうときに自分が何に突き動かされているのか丁寧にさぐる。

どうも、「焦り」に似た、腰回りの落ち着かないようなあの感覚があるのではないかな。

つまりは、読む方も、書く方も……。

ぼくは何かに焦っているときに、どうも、あやうさと、謎の充実感を得るようだ。





焦燥感って10回言ってみて。

焦燥感焦燥感焦燥感焦燥感
焦燥感焦燥感焦燥感焦燥感
焦燥感。

9回しかなかったよ。

焦燥感。

よし。じゃこれは何?

ぱしょこん!

じゃぱしょこん閉じて。

はい。