2019年6月3日月曜日

育たなかった舌と育った舌の話

鳥貴族行ったことない。たぶん、ぼくが大学生のときには札幌になかったと思う。

安い居酒屋については、大学生時代に行った店ばかりが良く見えてしまう。「自分がオトナになってから札幌にできた居酒屋」には、それほど行く気がしない。だから鳥貴族未経験マンだ。

「もういい年だから汚い店に行きたくない」とは思わない。ただ、「どうせ行くなら昔なじみの汚い店がいい」と思う。



最近、一緒に飲む相手が、「お互いに気を遣う相手」であることが多くなってしまった。

こういうとき中年は不便だなと思う。

先日東京で飲んだときは、妙にこじゃれたイタリアンの店でビールを飲んだ。グラス1杯に含まれるビールの量が少なすぎてこっそり一人で笑ってしまった。飲みすぎることなく、乱れることなくすごすことができ、その意味ではあのグラスで正解だった。

でもぼくは汚い居酒屋が懐かしくなり、途中でなんだか悲しくなってしまった。

そんなタイミングで横にいた人が突然口笛をふいたので驚いた。あの口笛はいったいなんだったんだろう、と思うし、飲み会で口笛をふくなんて小粋だなあ、と思った。それはいい人生だろうなあ。どんな店でも関係ないんだ、口笛を吹きながら飲める人は、うらやましい。





いい年して汚い居酒屋でホッピーを飲む、みたいなことを必要以上に持ち上げて語るのはあまり好きではない。そういう、「一周回ったステータス」的なものがあることは事実だと思う。

たたき上げ、雑草魂、ハングリーさ、苛烈な青春時代、などのアイコンとして用いられることがある、ホッピー、土手煮、ウーロンハイ。

「もっと高い酒を飲めるけど俺はこれが好きなんだ。」というセリフににじむ、名状しがたいマウンティング感覚。

ぼくは学生時代にずっとウーロンハイならぬコーヒーハイ……甲類焼酎のボトルの中に砂糖とコーヒー豆を入れた安酒……を飲んでいた。

懐かしい味だ。今飲んでも絶対にうまいだろう。

でも、今、飲む機会はない。




ぼくはどちらかというと打たれ弱いし疲れやすい。

老眼・腰痛・白髪・肌荒れがではじめた今日この頃は、やっぱりきれいで落ち着いた店で飲みたい。

ぼくの中に積み上がってきた文脈とか理念みたいなものは、「そろそろいい服を着て、落ち着いたいい店で飲むべきだ」と語りかけてくる。

実際、きれいな畳の個室でゆっくり飲む日本酒は、学生時代に飲んだどの酒よりもいい味をしている。




けれどもいい味がする酒を飲むというのと、しみじみおいしく時間ごと飲むというのはおそらくイコールではないんだ。




ぼくは最近気づいた。しゃれた場所で飲んでいるときのぼくは、「しゃべりすぎる方のコミュ障」になっている。

世間すべてが敵になり、自分のテリトリーを守るために言の葉を弾幕のように張り巡らせて、相手から何かぼくの対処できない話題が出てこないようにその場を操縦しようとしている。

一緒にいた人たちが笑いすぎて体をひねりはじめてからおもむろに、「はぁ、なんの話でしたっけ」で締めるお決まりのパターン。

繰り返しだ。メンツは目新しくても会話は目新しくならない。




裏返ったステータスづくりだと思われてもいい。

「俺はこういう安い店で飲めるようなフランクな男なんだ」というアピールに見えても関係ない。

ぼくは、文脈を捨て、理念も捨て、ほんとはコーヒー焼酎を飲んでいたいんだと思う。

コーヒー焼酎や、マイヤーズ少々にコーラを注いだラムコークを、だまってひとりで、3時間でも6時間でも、ずっと無言で飲みながら、暗く小さな飲み屋でマスターと2人、しずかに水曜どうでしょうを見ていた、あのときの口数少ないぼくが、一番ぼくだった。

これから出会う人たち、一緒にはたらく人たちのことは、きっと、「昔のああいう店に連れて行っても、怒らないかなあ」という目で見てしまう。

気づいてしまったら、もう、忘れることはできない。




誰かがしゃべっているのを聞きながら、本当はそこに混ざりたいのに混ざれないというアツアツの気持ちを手の中で右、左、と跳ね回らせながら、その気持ちが室温になじむまで、いつまでもいつまでも黙ってサザンの古いアルバムを聴いていた、学生時代の飲み方を、ぼくは最近よく思い出すようになった。

ぼくはもともと、しゃべれない方のコミュ障だったんだなあと、たまたま見つけたウェブアーカイブを掘り出しながら、この文章を書いたり消したりしている。