たとえば医療のプロとアマチュア、なんてどこで分けたらいいんだ? 大学で専門的な知識を6年間学べばそれでプロの医者と呼べるだろうか? 「医人」とでもいうべき人間が、医師免許をもたずに、人々に寄り添うシーンを多く目にする。
「いやー医者は医者でしょ。やっぱさあ。」
そうかなあ。
例えば、ぼくがこうしてブログに毎日ああでもないこうでもないと書きながら多くの人に読んでもらえるなんてのは、「プロの物書き」という概念が溶けつつある現代だからこそできていることだ。
かつての素人ってこんなに読んでもらえる場所はなかったとおもうよ。
かつての玄人はこんな品質の文章を簡単には世に出さなかったと思うし。
文章、音楽、マンガ、なんでもそうだ。プロ顔負けの素人がごっそりいるし、食っていけない玄人だって山ほどいるではないか。
医者だけが、たかだか国家試験ひとつで、「プロです」と名乗り続けていられると思ったら大間違いだ。
素人と玄人の境界がぼやけ、個人と社会の境界がぼやけ、いろいろなものの線を引きなおす。
あるいは、線が存在しないものとして考える。
あるいは、線ではないけれど移行帯みたいなものはあるよ、くらいの気分でやっていく。
いろーんなことで素人と玄人の境界がぼやけてきている。最近などは、もうそういうもんだよな、と腹をくくるしかない部分がある。
ここからはぼくが担当する、と、足元の土にギッと線を引いて、内側で構える。それが「腹をくくる」だ。
素人と玄人の境界がない世界で、ぼくは玄人としてやるからな、と、自分で宣言して、その内側でシャドウボクシングをしながら、備える。
あるいは逆に、ぼくは素人なのだ、と、線の外に出て、外をぐるぐると走り回って、線の中をときおりちらちらと眺めて、うらやんだり、あこがれたりをする。
自虐とか謙遜はひとつの芸だ。たまに、「そんなに謙遜せずに堂々と行動してください」みたいな的外れなことを言ってくる人がいるが、昔の価値観に凝り固まりすぎだと思う。
自虐と謙遜は境界線を引き直したときの「副反応」みたいなものにすぎない。そこに本質はない。
ぼくが自分を一段低く見積もって「素人だ」と発言するとき、素人と玄人がとろけた世界で、宣言して素人側に回るだけの覚悟を示したのだと、わかってもらわないと、そこが伝わらないと、やりにくくってしょうがない。
極論するならば、「玄人だ」と宣言するほうが簡単で、効果も高いが、それだけではカバーしきれない部分というのが、世の中にはおそらく、ある。