そういえば最近ようやく出張のときに時間を余らせることができるようになった。
仕事にかける時間が短くなったからだろう。
仕事が早くなったというよりも体力がもたなくなった。
あまり長時間集中していても途中から効率がまったく上がらなくなる。これ以上はいくらやってもだめだな、というポイントがみえる。すると自然と時間が余るのだ。
もちろん時間の使い方がうまくなったというのもあるかもしれない。けれども単純に疲れやすくなったというのが大きいかもしれない。
こないだ、京急蒲田のあたりでポカっと4時間ほど余ってしまった。
だから京急川崎まで移動して、そこで映画をみた。今までだったら何もできないとわかっていてもとりあえずバッテリーが差せる喫茶店を探してパソコンを開いてみたりはしただろう。でもそういう努力はしたくなかった。もうできないのだ。
川崎ではプロメアというアニメをみたのだがおもしろかった。堺雅人が声優で出ているというから絶対見たかった。新谷真弓が出ていたのでさらにうれしかった。ぼくがいうのもあれだがアニメには強烈なケアの文脈がある。
出張の最中に映画をみるなんて……。
本も読まず、原稿を書くでもなく、映画をみるなんて……。
われながら……いいご身分だな……
などとは全く思わなくなった。
この「我ながら、どう思うか」の変化はでかいように思う。
「休む」「あそぶ」「ゆるむ」に対して罪悪感があると、なんかいろいろだめだったのだ。そういうのがスポンと消えてなくなって、ようやく、なにやら人生に湿度の高まりが出てくるというか、ひとつのカメラだけではとらえきれない大きな演芸場の全貌が見えてくるというか、まあよくわからんけれどぼくは少しマシな人間になったのではないか、という気がする。もちろん比較の問題だ。誰かとくらべてマシなのではない。昔のぼくと比べてマシだということだ。
40をこえてようやくぼくは、時間の「あまり」とか、行動の「むだ」を楽しめるようになった。あちこちでいろんな人が言っていることだけれど、こういうところでにこにこできるようになると、人生はたぶん、楽しい。
……楽しくなったかどうか、自分ではわからないけれど……。
まだ今のところ、「必死であまらせ」たり、「頑張ってむだを捻出したり」しているから、これがほんとうに楽しいかどうかは、あまり自信がない。
けれどもそろそろ「ぼくは楽しいよ」と声を張っていかなければいけないような気もする。
このへんで納得しないで、いつ納得するんだよ、という気持ちが、なくもないし、そういう社会的な要請に基づいた「楽しいよ」ではなくて、うん、もしかすると、ぼくは今楽しいのかもしれないなあ。