2017年3月6日月曜日

病理の話(55)

解剖というものについて、ぼくが多くを語ることはない。

それは、ぼくが、解剖のことを嫌いだからだ。




今までぼくは、だいたい300件くらいの病理解剖をしてきたと思う。たった300件だ。昔の病理医は、3000件とか5000件というオーダーの解剖をしていたらしい。

ぼくの解剖件数が少ないのは、ぼくが解剖を毛嫌いしていたからではない。そもそも、「病理解剖」自体が減っているからである。

今や、病理解剖は、”ほとんど” 必要のない手技となった。

(※刑事事件の際に行われる解剖は司法解剖と言って、病理解剖とは別なのですが、その話はまたいずれ。)




病気の大部分は、解剖などしなくとも、明らかになる時代である。

CTもMRIも、切れ味がすごいのだ。死後画像診断というのもある(わざわざAiなどと仰々しい呼び方をするのは好きではない。死後画像診断、という言葉はずっと昔からあった)。

医師の診断手法も多角化した。血液検査だって切れ味ばつぐんだ。腫瘍の正体が知りたいだけなら、解剖までしなくとも、亡くなったあとに細い針を一本刺させていただいて、肝臓あたりから腫瘍を採取すれば、だいたいの遺伝子検索はできてしまう。

わざわざ、ご遺族に断って死体をあずかり、傷をつけて臓器を取り出し、外からわかりにくいように縫って包帯をまいて、きれいな着物を着せて手を合わせてお返しする必要なんぞ、もはや、ごく限定的な場面でしか、なくなってしまった。





完全に死語となってしまったが、昔、病理医は以下のように揶揄されていた。

「内科医は何でも知っているが何もしない、
外科医は何も知らないが何でもする、
精神科医は何も知らないし何もしない、
病理医は何でも知っており何でもするが遅すぎる」

これは、病理の主戦場が解剖だった時代の言葉である。

今と違って、まともな画像検査など一つもなく、切れ味のある血液検査もなかったころ、多くの病気は正体がわからなかった。がんと言えば体表に変化が現れる皮膚がんと乳がんしかわからなかった時代。胃や大腸、肺や膵臓などに「がん」が出るなど想像もつかなかった。患者が日に日に弱ってついにはなくなってしまう。どこに悪魔がついたのか、何が患者に悪さをしたのか、患者本人はおろか医者も学者も何もわからなかったころに編み出されたのが、

「病理解剖」

だった。

そりゃあ、「遅すぎる」とも言いたくなったろう……。

でも。

亡くなってしまった患者から得られる情報は、「まだ見ぬ未来の新たな患者」を救うヒントになるかもしれない。

病理解剖は、遅すぎるどころか、「早すぎる」くらいの仕事なのだ。本来は。

誰だ? あの格言みたいな言葉を作ったのは。

何もわかっていないじゃないか。





病理医は、病理解剖の間違ったイメージのせいか、暗く、手遅れな分野のように語られるふしがある。

まったくもって理不尽だ。不愉快である。

だからぼくは解剖が嫌いなのだ。





病理解剖では、体内にある臓器をすべて取り出す。取り出したあと、臓器の検索に移る前に、ぼくは必ず一緒に解剖に入っている技師さんに、「患者さんの体を縫い始めてください」と言う。少しでも早く、ご遺体をご家族のもとにお返しするためだ。臓器を取り出すために必要なだけの傷はそれなりに大きい。丁寧にゆっくりと縫い合わせる。時間がかかるから、臓器の検索が終わるより先に、縫い始めてしまう。

心臓を見る。すでに動いていない。ぬくもりは、あるときもないときもある。グロさはない。ここは、とても大事なところだ。

グロさはない。ただ、精巧すぎて、神の存在を一瞬信じざるを得なくなるような、そんな気分になる。

宇宙飛行士は、地球を眺めて、そのあまりにも美しく、宇宙空間において孤独でひよわな奇跡を感じて、なんらかの宗教に入信したくなる……。そんな話を聞いたことがある。

ぼくは宇宙にはいかないだろうけど、神の存在なら、臓器を見ればある程度は信じることができる。

臓器というのはそういうものだ。

ホラー映画や、グロ画像と言われる類のものが描写する「臓器」なんぞ全部うそっぱちだ。

本物をみると、キョトンとする。

これが体の中で、何十年にもわたって、人間ひとりを支えていたのか。

敬虔な気持ちがわきあがり、そこからすべてのシナプスが猛然と発火し始めるような錯覚を覚える。

縦隔気腫の分布がアーチファクトかどうか判断せよ。

乳腺を見逃すな。

下腿をもちあげて深部血栓の有無を探れ。

肝十二指腸間膜を切る時には胆汁の漏出を確認せよ。

副腎を同定するなら血管を触れておけ。

下大静脈は一発でほぼ全長を見渡せるように。

尿管を傷つけずに腎臓を秒単位で取り出せ。

枝追いをしながら肺にホルマリンを入れろ。

人間をかたちづくるすべての臓器に、あらゆる作法をもって挑み、患者の遺志と遺族の意志を次につなぐ。

すべてに、高度な専門技術と、先人たちが積み重ね、練り上げてきた「勘の付け所」が要求される。

不謹慎を承知で言おう。

人間のすべてを見てやろうとする解剖が、おもしろくないわけがないのだ。




……ほら、こうやって書くと、みんな、すごく引くだろう?

だから、ぼくは、解剖が嫌いなのだ。




ぼくは解剖がやりたくて病理に入った人間ではない。

そういう目で見られるのも腹が立つ。

学生実習のときは、顕微鏡を見るだけで酔っていた。

解剖実習で後ろの方に立っていたら、気持ちが悪くなってしまった。

そんなぼくは、乱視補正のかかった高級な顕微鏡で酔い知らずの毎日を送っているし、自ら体内を覗き込めばグロ画像からは程遠い「精巧で緻密な世界」が眼前に広がることに気づいて解剖の奥深さに触れ、今の仕事についている。





まんまとこうなっているのが嫌いなのだ。