2017年3月14日火曜日

病理の話(58) 執念の医者

ぼくは、日ごろ、

「自分の人生を堅実に歩みながら、周囲への気配り心配りを忘れず、周りの人を動かしながら、コツコツとした積み重ね、あるいは一瞬のひらめきと切れ味などで、スタイリッシュに大きな仕事を成し遂げた人」

のことをいちばん尊敬している。

そういう人の仕事を、とても評価している。




ところが、世にある「すごい仕事」というのは、必ずしもこんな「人にやさしい仕事」ばかりではない。

極めてブラックな労働環境の末に、信じられないクオリティの仕事が出来上がってくる場合もある。

ぼくは、そんな、「人の執念でしか成し得なかった仕事」のことを、実は、必ずしも評価していない。

だって、誰かがすごい努力をした結果、成し得た仕事ってのは、誰かが何かを犠牲にしないとできあがらなかったものだろう?

そのとき、誰が何を犠牲にしたか、ということに思いが及ぶと、どうにもやるせない気持ちになってしまう。

ぼくが今まで積み上げてきた仕事なんてのは、そんなものばかりだ。

徹夜を繰り返したあげくに作ったシェーマ(模式図)。

健康を害しながら書き上げた論文。

ぼくは、自分の人生と健康を切り崩さなければ自分の仕事ができなかったということを、けっこう、恥ずかしく思っている。





執念の医者というのを何人か知っている。

内視鏡の診断を極めようとするあまり、自分の胃に○○○○○(市販品だが厳に秘す)を薄めて巻いて観察した医者がいた。

毎日夕方の5時に職場を出て子供を迎えに行き、子供とともに9時に寝て、夜中の2時ころに目を覚まし、そこから朝7時までの5時間で論文を書く、というルーチンを組み上げた医者もいた。

彼ら・彼女らは、楽しそうに笑う。

自分のやりたいことができている、と、実にうれしそうに言う。

ぼくは、「その人がすごいからできる仕事」なんて、けっきょくその人一代で潰えてしまうじゃないか、後輩がまねできないほどの努力と犠牲を払って仕事を積み上げるのなんて、業界にとってはそれほどうれしいことじゃないんじゃないか、と思っているけれど、執念の医者たちの楽しそうな顔と、達成してきた業績の数々を見ていると、黙り込んでしまう。





病理医という仕事は9時5時でいける。ワークライフバランスが良好である。子育てをしながら、自分のやりたいことをしながら働ける仕事。

この切り口で、病理医という仕事を世に問うた結果が、今だ。

あらゆる医師の中で、一番、人数が少ない科のひとつとなっている。

ぼくは、それがなんだかとてもいやで、

「この仕事は、どこまでも打ち込める。いつまでも働いていられるんだぞ。」

と唱えながら、自分の人生と健康を犠牲にして、どこまでもどこまでも働こうとした時期があった。

忙しく楽しそうな臨床医に向かって、「俺だって」と、我を張りたかった。





ぼくは、そろそろ、5時に帰る生活を目指そうと思う。

その上で、誰もが納得するくらいの仕事を積み上げていきたいと思う。

そう、自分に言い聞かせている。

何度も何度も、脳内で繰り返し、唱えている。

「いっぱい働けばいいってもんじゃないんだ。何かを犠牲にして働くのは美徳じゃないんだ。」

しつこいくらいに唱えて、うるさいくらいに心に刻んで、それでいて、今、まだ、ときおり、徹夜を誇る臨床医たちの姿を見て、ああ、ちょっと、うらやましいかもな、と思うことも、ある。