2017年3月21日火曜日

病理の話(60) 演繹帰納アブダクションのめんどくさい思考

学術には、数学も物理学も生命科学も社会学も歴史学も含まれ、みんなそれぞれの持ち場でそれぞれに真実を探しているわけでああ、人間があちこちでそういう探究をしているのは、とてもいいことだなあ、すてきだなあ、我ときどき思う、ゆえに我あり、となる。

学術あるいは科学といったものには、さまざまなやり口、というか方法論があって、それは発見するものごと、解明するなにものかの性質にも関わっている。ヴァレリーってすげぇクソリプ使いじゃん。

たとえば、天王星の外に海王星が存在することは、当初、惑星の動きから「予測」され、極めて高い精度で場所を絞り込み、そこを「観察」したことで「実証」された。これは、「今まさにそこにあるはずのものを見つけた成果」である。

一方、ニュートンがリンゴが落ちるのを見ながら「予測」したものは、実は法則というか、目に見えない引力という概念であって、これは観察によって裏付けを得ることはできるのだが、しかし、誰も引力そのものを目にできるわけではない。引力子みたいなものを「観察」して「実証」したわけではないのだ。この場合、「目には見えない概念を考えて、その概念によってすべてが説明できることを示した成果」ということになる。

海王星の証明と、万有引力の証明は、どちらも証明という言い方をするけれど、どちらも科学の成果ではあるけれど、人々に「あっ本当だ」と納得してもらうためのやり方がまるで違うのだ。

かつて、日本には、神武天皇が存在したという。これはもう、目でみるという海王星のやり方では、確かめようがないのである。タイムマシンがない限り、直接見に行くことができないからだ。しかし、神武天皇について触れられた複数の書物から、「まあたぶん存在しただろう、そりゃ間違いないよね」と、傍証の積み重ねによって説明されている。万有引力のような「法則」とはまた違った、直接目には見えないものの証明である。ナポレオンはいただろう。大正天皇は間違いなくいた。……間違いなく? ほんとうに? 今を生きるぼくらが全員、今から2日ほど前に、記憶と存在をすべて同時に植え付けられたアンドロイドだったとしたら、「大正天皇がいた」という記録ごと作り上げられた存在だったとしたら? いろんな仮説を無理やり考えることはできるんだけど、無数の仮説にはそれぞれ「ほんとっぽさ」のレベルがあり、なんだか、ぼくらが2日前に作り出されたなんて、可能性としては極めて低いんじゃないかなあって思う。だから、やっぱり、大正天皇はいたんじゃないかな。鯛しょってたことはないと思うけど。

じゃ、医学は? 医学を科学として考えた場合、それはいったいどういう類のものなのだろうか。

ステロイドホルモンのように、発見され、機能が解明された「物質」がある。

膵液はたんぱく質を分解する。見ることができる。

遺伝子変異が蓄積すると、がんになる。……これは本当?

たぶん、最初は、「がんを調べてみたら、遺伝子変異がいっぱいあった」。これは観察できたこと。では、その逆は正しいのだろうか。遺伝子変異がいっぱいあると、がんになるの?

結果から原因を推測。その原因は、本当に、原因だろうか?

どうやったら証明できるだろう。時間をさかのぼるようなことはできない。今そこにあるがんの、時計を巻き戻して、遺伝子変異ができる瞬間までさかのぼれる? それががん化に大切だったと証明するにはどうしたらいい?

実験で、細胞に、遺伝子変異を「人為的に導入」して、その結果細胞が「がん化」することを観察した。わぁい、これはどうやら本当らしいぞ?

そう?

たまたまその細胞だけががんになったんだとしたら?

遺伝子変異を起こすために用いた薬剤が、遺伝子変異とは別に、細胞がん化の原因になっていたとしたら?

仮説を立てる。その仮説が、どういう結果をもたらすだろうと考える。証明するために実例を集める。なるべくたくさん集める。統計をとる……。

実際に目で見えるものを見つけたり、目では見えない理論を考えたり。

病理医の仕事を考えよう。

内視鏡を見て、病理診断が「推測」された状態で、病理組織像という「事象」を見て、ああ、病理がこうだから内視鏡がこうなったんだ、と、演繹的に内視鏡像が導かれることを確認、ある疾病を結論として導き、その疾病を「前提」として演繹して、過去の「統計」の結果をもとに帰納的に蓋然性が高いと考えられた予後といういまだ目に見えない未来を「推定」し、それに合わせて妥当性のもっとも高い治療を考察・実施。その繰り返しの中で生じた「ずれ」を「観察」して、なぜこの齟齬が生じたのかと「仮説」を作り、新たな仮説に基づいて演繹的に今の事象が「説明」しうるかどうかを考えて、仮説の妥当性を評価するための「実験」や「統計学的検討」を探る。数々の文献から導かれる、まだ人がたどり着いていない演繹的結論をシステマティックレビュー。レアケースによる反証例はないか? 新たな仮説の形成。演繹。帰納的拡張。仮説形成的拡張。演繹。

病理医の、形態を見るという視点がもたらす、総説(過去の文献を統括して当然の結論を探る作業)は、演繹的な科学だね。ぼく、去年、一本だけ書いたよ。

症例を見て考えて診断を出すと、それを前提として臨床医が治療方針を決めるの、演繹的な医療実践だな。毎日やってるよ。

ときおり現れる珍しい症例、不思議な現象に気づくこと。なぜだろうと考えること。仮説形成(アブダクション)的科学なんだな。大好き。

その仮説を実証するために、症例報告を作ったり、ケースシリーズという複数症例のまとめを作ったりするの、帰納的科学だね。研究会! 学会!

帰納法だけではいつ反証例が現れるかわからない。統計学だ。統計解析をしよう。そうすれば、仮説から演繹した結果が妥当かどうかを帰納的に解釈できるね……もっと統計の論文書かなきゃな。



医学もまた、科学として、複数のフクザツな「証明方法」を要求している。ポパーさん、爆発してそうですね。ベーコンさん、油は味わいだよね。



医学が普通の科学と比べて、あえて違うところがあると言ったら、それは何?


それは、医学はできれば、人の病気を治すためであってほしいと願う人が、少なからず……というか、いっぱい……存在する、ということ。

病気はなぜ病気なんだろう。そう思い悩む、哲学的な思考を助けるのも、医学であるということ。

病気や病院をめぐり、説明をしてもらったり、納得をしたりするためにも、医学が必要になるのだ、ということ。



演繹、帰納、アブダクション……。そして、説明のための、対話、ことば。



パースさんのおかげで、考えて考えて、顔面のパースくるっちゃうよ。ちょっとデカくなっちゃルト。