2018年3月28日水曜日

病理の話(184) 解剖必要論

「解剖は死因の究明を目的に行われる」。

たまにみかける説明文だ。

死因、とか、究明、という非日常的な熟語たちが緊張感を誘う。

このことばが最初に世間にやたらとつぶやかれるようになったのは「きらきらひかる」のときだったように思う。まあ当時はTwitterはなかったのだけれども。

今度はアンナチュラルだ。テレビの影響力ってのはすごいな。




解剖は、①司法解剖と、②病理解剖に分けられている。厳密にはもうひとつ、行政解剖というのがあるが、まあそこはおいておく。

 ①司法解剖は「事件」とか「事故」による死を扱い、

 ②病理解剖は「病気」による死を扱う。




事件や事故は、人体に外部から加わるもの、と考える(これを外因という)。

物理的な衝撃、激しい温度変化、吸引する空気の組成がかわること、そして毒物など。これらはいずれも外因、すなわち外から訪れて死を招く。


これに対して、病気というのは、人体の中に起こる異常であり、内因、と呼ぶことができる。

※厳密には、感染症のように、外から微生物が入り込むことで起こる病気もあるのだが、ま、そのへんを説明しはじめると長く複雑になるので、ここでは「病気は内因です。」ということだけお伝えしておく。




外因死なら①司法解剖。内因死なら②病理解剖。

外因か内因かわからない死の場合は……? そういう細かいところも、今日のところはおいておこう(いずれ語る機会もあろう)。




外因によって、ある人に死が訪れたとき、「まだ生きている人にとって」、いくつか気になることがある。

亡くなった人は、もう何も気にならない。いつだって気になり考えさせられるのは残されたほうの人だ。

解剖は「世界に残されて、これからも生きていかなければいけない、生きていきたい人々」のために行われる。



死の原因が何であろうが、残された人は、大きく分けて2つのことが気になる。

1.死んだ人のこと。

・亡くなった人には何が起こったのだろう、つらかったろうか、苦しかったろうか、案外苦しさは感じなかったのだろうか。まだ生きられたろうか、よくがんばったのだろうか。

2.まだ生きている人のこと。

・次に誰かがこの人と同じ状況に陥ったら、やっぱり死んでしまうだろうか。だったら、次の死をどうやって防ぐのがよいか。



これらは、墜落した飛行機の中から「ブラックボックス」を回収する作業に似ている(以前にもこのブログで書いたかもしれない)。

落ちてしまった飛行機は元には戻らないし、亡くなった人の命は取り返せない。

それでも、墜落の前に何が起こったのか、墜落は防げなかったのかを知らないと、「残された我々」は気になってしまう。繰り返そう、大きく分けて2つのこと。

1.死んだ人のこと。

2.まだ生きている人のこと。




解剖を手遅れの医療だと呼ぶ人がいる。こういうタイプの人は、朝5時台のニュースを読むアナウンサーのことを「昼には帰れるんだからいい仕事だよな」と呼んだり、火曜日に定休日を設けている美容室を「平日に酒が飲めていいよな」とやっかんだりする。放っておくほうがよい。

解剖とは過去だけでなく未来のために行う医療だ。




ところで、①法医解剖と、②病理解剖では、扱うものが「①外因」か「②内因」かの違いがあるので、解剖の仕方がかなり異なる。

ぼくは病理診断医なので、①法医解剖は、(資格的にはギリギリできなくはないが)やりかたがわからない。

ただ、「内因死だと思って病理解剖が依頼されたケースで、これは外因死ではないのかと気づいて、法医解剖にスイッチすることを提案する」技術だけは持っている。

めったにないことだが、法医学の講座とは仲良くやっていなければいけない。法医学の講座には友人がいる。彼らはアンナチュラルを見て何を思っているのだろう、ちょっと尋ねてみようかと思ったが、ま、元々語ることがうまいやつらである、いずれ本人達の口から何事か語られるだろうから、それを待つことにする。