2018年3月23日金曜日

脳だけが旅をする

LOSTAGEを聴きながら診断していたら日が暮れていた。ふとわれにかえったタイミングで、心の向こう側から自分の声がした。

(……そうだなあ、「自己責任」とか「自業自得」みたいなことばは、誰も救わないなあ。)

何時間か前に読んだブログの感想が、いまごろ頭に浮かんだのである。

へんな気分だ。タイムスリップをした気になった。

仕事をしている間、脳のほかの機能が停止していたのだろうか?

アイドリングしていた心の声が、よーいどんで飛び出してきたのだろうか?

このタイミングでこんなことを唐突に考えつくなんて、心の声というのは実に、不思議で、不如意だ。

ぼくはしばし、仕事の手を止めて、読んだブログに再度アクセスし、内容をもう一度読みながら、いくつか考え事をした。




心の声は、常日頃、どこにどうやって駐屯しているのだろう。

自分が意図しているいないに関わらず、ときどきぽっとやってきて、ぼくの思考を奪う。そんな思考の遊軍みたいな存在を、今日の記事では「心の声」と呼ぶことにする。



心の声は、脳にとって何か役に立つのだろうか?

立つだろうな。

「何かが降りてくる」とか、「ひらめく」とか、そういった現象は誰もがあこがれるものだと思う。自分の意志とはあまり関係なく、ふとした瞬間に突然聞こえてくる心の声。ときに硬直化した思考を拡張し、よりよく生き延びる可能性を上げてくれるだろう。

……まあ、心の声がいつもいつも役に立つわけではない。むしろ、取るに足らないナゾの思いつきに過ぎないことのほうが多いように思う。それもまた、いいんだろうな、たぶん。




無意識に、「自分の意志とはあまり関係なく」と書いていた。

そう、心の声は、「意志」とはちょっと違うように思う。

一般に、自分の意志で決めたことです、という場合、そこには「能動性」が含まれている。

けれど、心の声は、自分でも制御できないタイミングで、自分でも思いも寄らないような内容を、脳内に直接ぶちこんでくるようなイメージであり、能動とはちょっと違う。

そうだった、「中動態の世界」という名著をまた読み返してみよう。人間は、実は思ったよりも能動的には生きていないのだ、ということ。あの本を読んだぼくは何度も膝を打ったものだ。





PCをどんどんパワーアップさせ、ハードディスクの記憶容量をどんどん大きくすれば、あっという間に「人の脳が記憶できる容量」を超えることができる。

おまけに、「意志のようなもの」も、すでに現状のAI(人工知能)は搭載しているように思う。目標に向かって能動的に解析を進めていくことは、人間でなくてもできる。

もはや、脳の「記憶」と「能動的な作業」については、人間は機械に勝てない。

その一方で、「心の声」は、今のところ人工物には備わっていないと思う。

ときに突拍子もないことを、ときに脈絡もないことを思いつき、大事なデータをいくつかつまんで、もてあそびながらふわふわと考え、なんか別にどうでもよかったな、と思ってまた記憶にしまいこむような行動。

無駄が多く、きわめて人間くさい。ぼくはこの「心の声」こそが、「意識」というふしぎな現象の中核を担っているものなのではないかと思う。




散発的に放たれる心の声を少しずつ拾ってブログを書こうとする。2回に1回は、書いている内容がうまくおさまらない。まとめられずに発散したり、妙に収束してしまったりする。この作業を毎日のように繰り返して、自分が意志ある人間として何か為しているような気分になることもある。

けれど、今日の記事を書いてみてわかった。ぼくのブログは、必ずしもぼくの能動的な意志で書かれたものではない。たまたま縁あって、書ける状態が続いているぼくが、心の声にときどきせかされて、中動態的に「書かさってしまったもの(北海道弁)」を集めて置いてあるだけだ。




なるほどなあ。

きみはそんなことを考えていたのか。

心の声から連想した文章が、手首より先のあたりでかたかたとキータッチをしていくのを、ぼくの目が眺めて感心をしている。