2018年3月27日火曜日

したがきになる

出張して学術講演をした際に、うっかり間違ったことを言ってしまった。出席者のメールアドレスに次々とおわびのメールを出した。

ひとりひとりに少しずつ違う文面を送るため、内容のコアの部分をコピペしながら、少しずつ言い回しをかえていった。

そしたら最後の人にメールを送るころにはとても読みやすくなっていた。

最初にメールを送った相手への文面は、振り返ってみると、ちょっと読みづらかったな。申し訳ない。





学術、エッセイ、ブログ、そして日々の病理診断書、それぞれ使っている脳の領域はたぶんバラバラなはずであるが、「文章をつくるときの取り組み方」は似ている。

「しめ切り」が決まったら、ぼくはとにかく一刻もはやく原稿を作ってしまうことにしている。しめ切り直前まで迷ったとか、ぎりぎり最後の夜に書き上げた、などという記憶はない。

書き上がったものを、いったん寝かせて、脳に残っている「書いたときに持っていた強烈なイメージ」を消す。消えないにしても、薄める。「作者の気分」を忘れるまで待つ。そして時間が経ってから、自分が「読者の立ち位置」になるのを待って、文章を読み直し修正を加える。

あちこちに、ほころびがいっぱい見えてくる。たいてい、「作者はすべてを書かなくてもすべてを知っているが、読者は書いていないことは知りようがないので、読んでいて情景がいまいち浮かんでこない」ことが多い。

しめ切りが近くなるにつれて、すなわち、作者としての観点が弱まり、読者としての観点に近づくにつれて、文章が少しずつマシになっていく。






ブログ記事ならともかく病理診断書の文章を同じやり方で書いてるってことはないだろう。そう思われる方もいらっしゃるかもしれない。

でも、やってることは同じだと思う。

プレパラートを見たら、まずハイスピードで仮入力をしてしまう。全ての標本にいったん目を通し、書けるところをどんどん埋めておく。それから、心ゆくまでじっくりと時間の許す限り、細かく難しい顕微鏡所見を追い求めたり、文章を読みやすく書き換えたりする。




ぼくの「文章の作り方」は、まちがいなくPC入力文化がもたらしたものだ。同じことを手書きでやれる自信が全く無い。ぼくの性格も仕事の適性も今の立ち位置も、すべてPCが現代にあるから成り立っているものである。

PCがなかったら、どういう書き方をしてどうやって生きていたのだろうなあ。

そういえば、芥川賞作家の西村賢太氏の日記を読んで、紙にペンで原稿を作る人であっても「下書き」をする場合があると知った。よく考えれば当然のことだ、昔の文豪だって下書きをきちんとした人はきっといただろう。でも、ぼくは正直おどろいたのだ。文章を何度も何度も書き直すなんて、恋文じゃあるまいし、職業作家が毎回「書き直し」をやっていたら時間がどれだけ経っても足りないではないか、とすら思った。

それこそ、中には、脳内の情景を言葉にするのがうますぎるため、下書きなどは不要、一度書いたらそれが完成原稿です、という人もいるのかもしれないけれど……。



デバイスが進歩して、ひとつひとつの作業のスピードがはやくなると、試行錯誤できる回数が段違いに増え、手間もおどろくほど少なくなる。

あくまでぼくの場合だけれども、とにかくまず全景をみてみないと、細部にこだわることもできないし、全体のバランスを整えることもできない。できるだけ下書きを早めに作ることこそが大切だ。




各方面にお詫びメールを出し終わってふと思った。「その場で質問されて、口頭で答える」という作業には、下書き的なプロセスが存在しない。口から出た言葉を「書き直す」ことはできない。相手と会話をしながらボケたりつっこんだりしておもしろさを探っていく「しゃべくり」ならば、いちど発した言葉に多少のあやまりがあっても瞬発力とウィットでなんとかやっていけるだろう。でも、学術講演会における質疑応答のように、短時間で論理をわかりやすく正確に相手に伝えなければいけない場所……下書きなしの一発勝負でぼくがどれだけ脳内の情景を言葉にして相手に伝えられるかが問われる場所は、「まず下書きをさっさと仕上げるタイプ」のぼくにとっては鬼門なのだ。

あの芸能人もあの実業家もあの国会議員もみんな「早く正確に正しいことを言え」とせっつかれていたっけなあ、とあわれみの感情すらわいてくる。主戦場が書き文字の場を選んだ過去のぼくは卓見だったのだ。