2018年3月26日月曜日

病理の話(183) ベルトコンベアー的システムを読む

生きていくためには、「昨日と同じ自分で居続ける」ことが必要である。

いや、ま、成長とかね、勉強とかね、そういう意味では、「昨日と同じ自分」でいてはだめなんだろうけれども、そういうことじゃなくて。

脳が脳として。心臓が心臓として。

胃は胃として。肝臓は肝臓として。

昨日と変わらずクルクル働いてくれないと。

精神の成長もへったくれもないであろう。

だから、生命がもっている「自分を維持しようとする働き」というのはとても大切だ。

少し専門用語を使うと、「恒常性を維持する」ということ。恒常性の恒は、恒星の恒。「つねにありつづける」みたいな意味だ。



恒常性(ホメオスタシス)の維持のために、人体はさまざまなシステムを用意している。

定期的に栄養とか酸素を摂取するのは、細胞を常にみずみずしく保ったり、細胞が活動するためのエネルギーを補給したり、細胞が新陳代謝するための材料を補給したりするために必要だ。

ばい菌とかウイルスのような、「敵」が体内に入ってきたときに戦ってくれる、「免疫」。これだって、昨日まではいなかった敵を今日も明日も追い出し続けようとするはたらきである。

これらについては当ブログで何度か触れてきた。今後も書くだろう。

そして、今日はちょっとだけマイナーな視点から話をしたい。




まずは例え話だ。

あなたの家の中をきれいに保つために必要なものは何か? と考えてほしい。

たとえば食材とか、生活必需品はきちんと届くと仮定する。

けれども、届いた必需品が玄関に置きっ放しではいけないだろう。これらを、「あなたが使う場所に運ぶ」という作業が必要だ。

また、暮らしていればゴミが出る。ほこりも出る。きれいにおそうじして、ゴミ袋にまとめる。この「ゴミをどこかに捨ててくる」のも、あなたの仕事である。

必要な物資が「ある」だけではだめ。

ゴミを「まとめる」だけではだめ。

食材は、放っておいても冷蔵庫には入らない。ゴミは、放っておいても勝手に誰かが捨ててくれたりしない。

家に住む人々が、自分で、食材を運んだり、ゴミをゴミ捨て場まで持っていかなければいけない。




例え話はここまでにして、話を人体に戻す。

体内では、食べ物やゴミを、どうやって運ぶのか?



食道から胃、十二指腸、小腸、大腸と続いていく管の中を食べ物が通り過ぎ、さまざまに消化・吸収されたのちに、便というコンパクトなゴミが完成する。

この食べ物やゴミを運搬するのは、「ぜんどう(蠕動)」という、消化管自体のうごきだ。消化管の壁には平滑筋という、われわれの意志とは関係なく動く筋肉が完備されていて、これが管を波立たせ、口側から肛門側へと一方通行の流れを作り出す。

よく考えると極めて高度なしくみだ。歯磨き粉のチューブを思い浮かべて欲しい。あなたは「平滑筋」になった気分で、チューブをぐいぐい押して中身を外に出そう。ただし、チューブの入口は一箇所ではない。チューブの両端に出口があると思って欲しい。さあ、うまく押して、「片側からだけ」歯磨き粉を出してみて欲しい。

これ、意外と難しいだろうと思う。食べ物や便を逆流させてはいけないというのは誰でもわかるだろう。求める機能は実にシンプルだ。しかし、それを「筋肉のしぼりだけで実現」するというのはいかにも高度ではないか。



実はこの「筋肉によってしぼりあげることで運搬するシステム」は、消化管だけではなく、いろいろなところに備わっている。たとえば、唾液腺の「導管」の周囲には筋上皮細胞という「しぼり」がある。乳腺の「乳管」の周囲にも、膵臓の「膵管」の周囲にも、腎臓から膀胱への道である「尿管」の周囲にも、みな、一方通行で物資を運ぶための「しぼり上げシステム」が存在する。



ずいぶんとマニアックな話をしているなあ、と思ったかな?

ではここで問題である。

「乳管」に似た形をしているけれども、周囲に「しぼり」を担当する筋肉がない状態……というのがありえる。

これは、いったい、なにか?

病理医が、そういう、「しぼり」のない管を見つけたら、なんと言うだろう。



「……乳がんだ……。」



しぼりがなければその管は正常に働けないのだ。正常に働けないくせに、正常の構造のふりをしてそこらじゅうに散らばっているもの。これはすなわち「がん」の可能性がある。

人体を支える機能はとても複雑で、それぞれに意味がある。その機能を「省略」しているものが平気でのさばっているとしたら、それは生体の秩序を乱す「がん細胞」かもしれない。ぼくらはときどき、そういう目で、顕微鏡を見ている。